なしくずしの消化試合は続く

生きていたくない!と初めて思ったのはいつのことだったろうか。初めて自殺を決意したのはたぶん小学校の高学年の頃で、どうせ死ぬなら最後の晩餐だ、と家にあった厚切りベーコンにチーズをたくさんのせてパンと焼いて食べて、いつのまにかまた今度、という感じになっていたりした。

小学校に入った頃から母の自殺未遂を発見して家族に電話したり、飛び降りようとする母にしがみついて止めたりしていたわたしは、自殺というものが恐ろしく身近な環境ではあったし、結局母は心不全で死んだけれど、わたしは「こうやって注射器でやるとぴゅーっと血が出るけどね、空気を血管のなかにいれると心臓が止まるんだよ」と母の実演を見せられていたし、自殺したんだろうなとそのときにできたカーペットの赤黒い染みを母の死後に見つめて思ったりしていた。

おまけに父親は憔悴していると思ったらあっさり自殺してしまったし、わたしは第二発見者だった。ヘリウムボンベを部屋に運び込むのを見たのも、それに申し訳程度に声をかけたのも、最後の晩にやや不審に思いながらもおやすみと言ったのも、わたしだった。

 

自殺というのは親よりも身近な存在なのだ。

母も父も、結局のところ誰かにすがるよりも死にすがっていた。二人とも虐待されていたりDV家庭で育ったりいじめられたりしていて、およそ人間としてまともに出来上がってはいなかった。その都度のよすがを求めて男と女に走るところは似ていたし、だからこそぐずぐずに関係を持ってしまってそこから抜け出せないまま呪いあって死んでいった。その遺産はわたしと弟と、両家に残された多大な怨恨とか、そういうもの。ないほうがよかったものを打ち消すほどの幸せはどこにもない。

要するに、父も母も救われるためにわたしたちを捨てていったのだ。当たり前だと思う。わたしも生きている限り救われないという信念にとらわれている。何度も首をつろうとして泣いていたのは、自分が幸せになりたかった未練と、おいていく弟の苦しみがあるからだった。わたしだって生きてる間に救われたかった、と。

 

そうやって死ねないままずるずる生きてきた。今じゃ誰かを救おうとする仕事をしていて、でもやっぱり自分は救えないままだ。生きているだけでなにをしたって埋め合わせがつかない。生きている、ということがコップの底を削り取ってしまったから、何を注いでもなにも残らない。実態のないものだけがもやみたいにその空白を満たすことはできるけど、実態のあるものの影にすぐ掠め取られてしまう。なにも残らないし、なにも生まれない。

仕事でいくら認められても、研究をいくら褒められても、人生をいくら称えられても、それ以上のなにかは生まれない。ああ生きててよかったなとか、そういうのは瞬間的に生まれても、すぐに霧散してしまう。だって底無し沼があるから。

まだましだと思えるときもある。せめて死ねないなら社会的に生きなくてもいい道を、と祈ることはある。でもお金がないとそれはできなくて、それを出してくれる人もいないわけではないけど、十分にあるわけではないから自分のために稼がなきゃいけない。ばかみたいだ。なんで延命措置に苦しんでそれを解消するために必要なお金をまた苦しんで手にいれているんだろうって、思いませんか。

本当に生きていたら救われないのかどうかをずっと確かめている。なんとなく唯一の活路は見いだせたけど、でもその主観的な幸せのために人を犠牲にすることは、結局自殺と似たような罪悪感を生む。それでもわたしが生きているだけでいいというのを鵜呑みにして、ヘラヘラ笑うしかないのだ。人の言葉ほどわたしが信じないものはないのにね、って言葉で言うしかないのが悲しいね。

死ぬことができないわたしはせめて空想のなかに逃げ込むしかないのだけど、空想は現実にすぐ踏み潰されてしまう。影はゆらゆら揺れているけど、脳みそが現実に向けられた瞬間に違う存在にわたしの方がなってしまうから。現実を生きるために人間の模造品を作り上げたはいいけど、運用コストを払うのに自転車操業にもほどがある。こうやって言葉の隙間にいる間はまだいいのだけど。

死んじゃだめ、と呪われているので、死の救済の甘さを痛いほど知っているのに、それを知るほどに生きていく苦痛は増すのに、苦痛が増すほど死は甘く優しく美しく絶対になっていくのに、なしくずしの消化試合を続けていくしかない。ばかみたい。誰かのためにばかになれるほど、わたしは人間ができてないのだ。自分のことが一番かわいいし、自分の幸せを大事にしたい。それでも良心みたいなものがあって、板挟みになりながらポケモンの厳選をするんです、今日も。