存在、あるいは夢想

電車に乗ると、思ったよりもたくさんの人間が生き生きとしている。春休みの女子高生らしき少女は、ショートパンツを早くも素足に身に付けていて、その姿が謎の寒気に包まれているわたしを震えさせた。世界は春の訪れを受け入れている。薄手のアウター、ペールトーンのスカート。わたしはまだ、タイツもウールのカーディガンも手放せない。けれども脳はずいぶん前から春の訪れを察知して、過敏に反応しているのだった。

 

春だ、と脳が察知したのは、もう一ヶ月ほどは前のことだと思う。朝起きた瞬間に、空気の広がりが違った。

冬は濃密に中へ中へと押し込まれていく空気が世界につまっている。見えない天井は空と地上を二分して、明るい雲はやたらと遠くに見える。まぶしいくらいのひつじ雲を部屋の中から眺めた日には、まだ父が生きていた思い出があるので、わたしはそんな空が好きなのだ。

春はそれとはうってかわって、空気が散り散りになっていく。雲も真綿をちぎったように広がっていく空は、深さがわからないくらいどこまでも同じ色をしていたりする。そこに空気の壁も厚みもなくて、なにもかもがどこまでも透き通って充満していく。青みを帯びていく世界は、少しずつ地面にも春の空気を芽吹かせて、また空へはなっていくのだ。恐ろしいくらいに世界は華やいでいく。

そんな世界のなかで形を保つのは、とても難しい。

 

冬はいい。まだいい。空気がわたしを閉じ込めてくれる。じっと沈殿するように、けれど水底を広がっていけるように空気が助けてくれる。けれど春は、わたしの脳をあちらこちらへ引っ張って、たんぽぽの綿毛が飛んでいくようにわたしを散り散りにしてしまうのだ。

わたしは元々この世界にいるのが上手ではない。それが先天的な原因によるのか、後天的なそれなのかは、わたしがいくら心理学を勉強しても、精神科医と話をしてもよくわからない。

この数年で、わたしはずいぶんさとくなったと思う。知識が増えたわけではなくて、世界に対する身構えかたが変わった。というよりも、世界に腰を据えているのが下手くそになった。それはわたしに恩恵をもたらしたけれど、一方で社会生活の苦痛をも、これまでのそれに上乗せする形で与えた。

この居心地の悪さをなんと形容したらいいのか、どんな言葉で表現したらいいのか、わたしにはわからない。言葉にすることができない、言葉の世界にいることができない苦痛を、言葉で扱うことができるのだろうか。

 

その違和感をなるだけ忘れることができるように、音楽や本があるのかもしれないけれど。