こばなし

日が落ちはじめた空は、あたたかく溶けるような色の光をまちに落とす。木も、家も、花も、道も、人も、その影を薄くのばしたぶんだけ、それぞれの色を空へ明け渡し、その光の色を享受している。ただ流れる川の水面だけが、その光を集めては放ち広げては仕舞いこんでいる。
がたんごとん、がたんごとん。
ずいぶん遠くにあるはずの線路から、光の合間をぬって電車の音が響いてくる。ぼくは乗ることのできない電車。帰るでも行くでもなく、揺れ続ける電車。空の色を受け止めた葉っぱが、その音に似たリズムでもとの色を覗かせてはまた空の色に染まる。
「タクシーは要りませんか」
ぼくの足元から、郵便ポストを担いだてんとう虫が声をかけてきた。要りません、と応えると、てんとう虫は来た道を帰っていく。ぼくはてんとう虫に八百屋の場所を訊かなければならなかったのに。呼び止めようとしたときには、てんとう虫はもう狼になっていた。送り狼になってはいけませんよ、と川の向こう岸から声がする。
「送り狼になってはいけませんよ、送り狼になってはいけませんよ、紙飛行機を一機、紐で結わえてこちらへ送ってくださいね」
向こう岸には、町内放送のためのスピーカーがひまわりと交互に並んでいる。
「おかあさん、ごはんはまだですか」
ぼくは叫んだ。
「明日は図書館に行く日だから」
スピーカーが揺れた。スピーカーは竜胆なのだ。スピーカーは水仙なのだ。スピーカーはぬばたまの烏が落としたビードロのしずくなのだ。スピーカーは明日咲くつぼみを静かに揺らした。
明日は図書館に行く日だ。図書館に行く日は、おかあさんが握ったおにぎりとぼくが握ったおにぎりをアルミホイルでくるんで、晩御飯の残りをつめたお弁当箱と一緒にくまさんの巾着袋にいれて持っていくんだ。図書館に行ってぼくのお気に入りの絵本を借りて、おかあさんがガーデニングの本を借りて、帰り道にぞうさん広場でお弁当を食べるんだ。ぞうさん広場にはぞうさんがもういない。ぞうさん広場と名付けたのはおかあさんだ。おかあさんとぼくがぞうさん広場でお弁当を食べていた頃には、そこにぞうさんがいた。ギイギイ音をたてて揺れるぞうさん。いまはぞうさん広場には小さくて汚い砂場と、真新しいベンチしかない。生い茂った雑草とそこを住み処にする虫を嫌ってだれもそこを訪れない。ぼくもそこを訪れない。ここはすべてが嘘なのだから。
「おかあさん、ここはすべてが嘘ではないですか」
ぼくは叫んだ。
「明日は図書館に行く日だから、紙飛行機を一機、紐で結わえてぞうさんに渡してくださいね」
ぼくは知らないふりをする。おかあさんもぞうさんもいなくなった朝へ向かう電車を逃したまま、ぼくは眠ったふりをする。空はかけあしでぼくを明日へとつれていこうとする。まだだ。ぼくはまだここにいる。朝はまだ、ぼくのもとへ訪れてはならない。

「おかあさん、ばんごはんはまだですか」
夜の闇につられて魚が跳ねる音がした。