明日の自分によろしく

一日ごとに自分が死んでは生まれていく気分になる。

 

わたしの人生には今日しかない。昨日の自分との連続性がないから、毎日、時間が進むということがわからないし、同じ日をずっとやり直している気分になる。でもそんなことはなくて、昨日の自分が食べてしまったものや、取り付けた約束や、やらなかった課題や、動かしてしまった歯車は、全部わたしに影響するのだ。

昨日の自分の考えていたことは、今の自分には理解できなかったり、納得できなかったり、とにかく自分の考えていたことだと思うことができない。

 

一分一秒で、自分の気持ちがころころかわって、それに振り回されていきている。

みんなわたしのことを、よくわからないだとか、変なやつだとか、いろいろ言うけれど、わたしが一番わたしに振り回されていて、わたしが一番そう思っている。

でも人を振り回して傷つけて迷惑をかけるのも確かだ。

人の気持ちがよくわからない。

わたしは人の気持ちがわかると思っていた。

それは共感とか、そういうやつで、心の理論とか、そういうやつ。

でも、わたしが人の気持ちをわかったような気になっていたのは、理屈で考えてはじきだしていたからにすぎなかったんだと思う。

だから、自分の理屈とずれたことを言ってくる人がこわい。嫌われるはずなのに嫌われないのも、なにもかも全部わたしを騙してるんだと思う。

人間はみんなうそをつく。

言葉は嘘をつくために使われる。

言葉にしたものは全部、ほんとうのものではなくなって、足りない形がすべてになってしまう。

言葉なんてなければ良かった。

 

パパもママもきっと同じ思いをしながら生きていたんだろう。パパの遺書にも、ママの日記にも似たようなことが書いてあって、わたしはそれに安心するのだ。うそばかりの現実のなかで、死んでしまった二人の遺したものはうそにはならない。死んだ人、会えない人、どこにもいない人、それだけが本当の世界にいる人で、わたしにうそをつかない人。それ以外の人と仲良くしようとしたり、自分をわかってもらおうとするからだめなんだと思う。わかってもらう自分なんてどこにもないのに。みんなと同じようになんかできないのに。

パパの遺書には、自分の殻に閉じこもらずにたくさんの人と関わってください、と書いてあった。パパにはわかってたんだと思う。わかってたんなら、死ぬな、ばか。

 

今日の自分は今日死ぬ。