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今日のかきとめ

どうでもいいけど、編集画面をスマホで開いて直接書くと、とても書きづらい。スクロールが地獄なのだ。なのでわたしはいまこれをメールの作成画面でしこしこ入力している。どうでもいいけど。ついでに言えば大学のクーラーの恩恵を受けながら。

よしもとばななの小説が好きだ。
高校生の頃までは、母親の本棚に並んでいたそれらの本を、少し避けていたというか、私は手を出さないぞ、という謎の意地によって遠ざけていたのだったが、大学生になって、心理学を勉強してボロボロになって、殻が外れてむき出しの自分はあっさりそれを手にすることができたのでした。
私は集中するということがとても苦手で、外的な刺激にすぐに注意を向けてしまうし、外的な刺激がなければ内的な刺激を作り出して同じことをしてしまう。アウトプットは得意だけど、インプットは苦手。なので、本を読むというのもあまり得意ではなくて、波をつかめそうなときしか読む気も起きない。でも、よしもとばななの小説は不思議といつでもすいすいと読めるのだった。例えるなら、水よりからだの水に近いポカリのような浸透力で。(私は水よりも味のついた飲み物が好きで、なかでもポカリが一番飲みやすい、という感覚による)

昨日は『デッドエンドの思い出』を勢いに任せて読了した。短編集なので少し気乗りしなかったけれど、朝急いでいる瞬間につかんできただけのことはあった。なかでも、『おかあさーん!』という話は、電車のなかでためらいなく泣けるほど私にゆさぶりをかけるものだった。自分を育てることができなかった母親と父親と小さい頃の自分が夢のなかで食事をして、その内容がいかにも、という場面があるのだけども、尋常ならざるシンパシーでもって一緒になって親を感じてしまった。この話で泣ける人と友達になりたい。
ちなみに、今日読んだのは『ジュージュー』。宮坂さんは私の理想の男性像というか、教授に見ている夢と同じだったので、ほげーというかんじでした。

ところで、卒論のことを考えてこのところノイローゼに追い討ちをかけていたのだけれど、卒論の内容として考えていたモデル、すなわち自分の心について言葉にしてその形を描こうとしたものと、似たような表現がよしもとばななの小説のなかにはしばしば見られ、何かにかられるように久しぶりにまた手を出したことに意味と導きを感じる次第です。