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弱気になってはダメ、すべてはなんとかなるから、ポジティブになりなさい

すべての人がそう思うことで頑張れるならうつ病はない。

この間のバイトの愚痴の少し続きになる。
まだまだうつが治らなくて、自然に笑えないし、うつと表現するのがいちばんてっとりばやい状態がまだ続いている。(うつの人ごめんなさい)バイトのシフトのことで呼び出されて、いつを休みにするのか、という話をしなければならなかった。ただ、私はもうこれ以上働けないという考えしかなかったし、いつをとかいう問題ではなくて、今すぐにでも解放してすべてのものから逃げ出さないと自分が何をするかわからない、というこのあいだも書いた気がする考えがぐるぐる回っていて、それを「ふつうのひと」にどうわかってもらえばいいのか?とずっと考えながら無駄に胃を痛めていた。
そこに、上司によってありがたい励ましの言葉が格ゲーのコンボのようにきれいに打ち込まれたのだった。

弱気になってはだめ
あなたが頑張らなくてどうするの?
あなたの家族も歯を食い縛りながら必死でがんばってここまでやってきたんだから大丈夫
頑張れないと思ったら頑張れなくなる
なにごともポジティブに考えなきゃ面白くない
なにごともうまくいくしなるようになるんだから頑張りなさい、わたしだってそうだったから

あと10発くらいは頂戴した気がするが、始まってすぐに意識を半分飛ばしてしまったのでほとんど思い出せない。泣いちゃうのでやめてください、と言って私がこらえていたのは激励に胸を打たれた感動の涙ではなくて、感情の爆発を塞き止めてそれでもあふれてしまうなにかだった。

頑張ることのできる人に悪気はないし、むしろこれは清々しく正しすぎる言葉だ。だからわたしには受け止めきれなかった。受け止めたらわたしも頑張ることのできる人になれるのだろうか?これでもちこたえて、やりすごして、またしばらく先に同じようなことがおこって、そのたびにもちこたえてやりすごして、そうやって生きていくしかないのか。そうやって生きていくしかない。死なないわたしに責任がある。

もう頑張れないと思う。これ以上頑張ったらもう元に戻れなくなる気がする。でもそんなのただの大袈裟な杞憂で、頑張らなくてすむためにわたしがいままでとってきたこずるい方策なのかもしれない。わたしは絶対的に間違っている。それは確かだ。でもどうすればいいの。元気出しなさいって言われても、どうやったら元気になるのかわからない。わたしがわるい。わたしがわるい。あなたはただしい。

今日のかきとめ

どうでもいいけど、編集画面をスマホで開いて直接書くと、とても書きづらい。スクロールが地獄なのだ。なのでわたしはいまこれをメールの作成画面でしこしこ入力している。どうでもいいけど。ついでに言えば大学のクーラーの恩恵を受けながら。

よしもとばななの小説が好きだ。
高校生の頃までは、母親の本棚に並んでいたそれらの本を、少し避けていたというか、私は手を出さないぞ、という謎の意地によって遠ざけていたのだったが、大学生になって、心理学を勉強してボロボロになって、殻が外れてむき出しの自分はあっさりそれを手にすることができたのでした。
私は集中するということがとても苦手で、外的な刺激にすぐに注意を向けてしまうし、外的な刺激がなければ内的な刺激を作り出して同じことをしてしまう。アウトプットは得意だけど、インプットは苦手。なので、本を読むというのもあまり得意ではなくて、波をつかめそうなときしか読む気も起きない。でも、よしもとばななの小説は不思議といつでもすいすいと読めるのだった。例えるなら、水よりからだの水に近いポカリのような浸透力で。(私は水よりも味のついた飲み物が好きで、なかでもポカリが一番飲みやすい、という感覚による)

昨日は『デッドエンドの思い出』を勢いに任せて読了した。短編集なので少し気乗りしなかったけれど、朝急いでいる瞬間につかんできただけのことはあった。なかでも、『おかあさーん!』という話は、電車のなかでためらいなく泣けるほど私にゆさぶりをかけるものだった。自分を育てることができなかった母親と父親と小さい頃の自分が夢のなかで食事をして、その内容がいかにも、という場面があるのだけども、尋常ならざるシンパシーでもって一緒になって親を感じてしまった。この話で泣ける人と友達になりたい。
ちなみに、今日読んだのは『ジュージュー』。宮坂さんは私の理想の男性像というか、教授に見ている夢と同じだったので、ほげーというかんじでした。

ところで、卒論のことを考えてこのところノイローゼに追い討ちをかけていたのだけれど、卒論の内容として考えていたモデル、すなわち自分の心について言葉にしてその形を描こうとしたものと、似たような表現がよしもとばななの小説のなかにはしばしば見られ、何かにかられるように久しぶりにまた手を出したことに意味と導きを感じる次第です。

うつとバイトと育った家と

うつがひどい。
うつになると、消えてなくなりたい気持ちと、もう頑張れないという気持ちがあって、それに対する自己否定(甘えとか、そういう)、頑張れない自分に対するいらだち、もうなにもかも無理だという諦めとか、いろいろでごちゃまぜになって、ただ私の甘いところはある程度であれば見て見ぬふりができることもある、というところで、直近のストレッサーを回避することで少しは安定してしまうので、やはり甘えだと思わざるを得ないし、他人には批判されて当たり前なのだと思う。

昨日今日の私はそれが強くて、何もかもから逃げ出さないと自分が何をするかわからない不安とか、逃げ出すことに対する罪悪感とか自責感とか、自分に対する殺意とか、死にたい気持ちとかでいっぱいだった。大学に向かうとき、電車が来るアナウンスが耳に入った瞬間、その聞こえかたがあまりにこわくて、もうだめだ、と思ってしまった。それで大学を休み、自分の行いを精一杯正当化して楽しみ、明るい気分を手にいれて、翌日のバイトを半分休みにしてもらうことにして、なんとか回復しようと思ったのだ。それが昨日のはなし。

そして今日、神父が燃えたり女の子の首が切り落とされて血しぶきがとびちったり殺される状況から逃げ出したり、疲れはてたライオンと向き合ったりする夢を見て、私はまだだめなのかもしれないと思った(夢分析が好きなのもある)。昼寝をしてなんとかしようと思ったら、夢で「歯にガンがある」と告知されたり、町中に「闇をみつめる」みたいなフレーズのポスターがたくさんあったりして、ああだめだ、と思ってしまった。
でも行くと言ってしまったので、バイトに行ったら、やっぱりうつで、声のトーンも上がらないし、大きい声も出せないし、にこにこできないし、明らかにうつ丸出しになってしまった。一緒に働く人たちが怒っているように見えてこわくて、ペンをもつ手が震えて、人の声がこわくて、それでもなんとか耐えなければと思って怖い顔になっていた。休みの連絡をした上司に「大丈夫?」と聞かれて、「まだあんまり」と答えてしまって、意地をはれなかったことを後悔した。上司たちに「休んでゆっくり治しなさい。私たちが頑張るからいいよ」と言われてしまって、他の人たちにも言われてしまって、耐えきれなくなって泣いてしまって、ものすごくみじめになった。優しさに嬉しくなるというよりも、迷惑なので帰れと言われているとしか思えなくて、やっぱりこうやって甘やかされなければ生きていけないんだと思い知った。上司は私の家族をみんな知っている人だったから。

私は結局、「育ちのせいで心が弱い」という看板なしには生きていけないのだと思った。それは、周りのお情けがなければ生きていけないということだ。普通にすることができない。普通の反応ができない。どんなに努力しても、少し怒られただけで死にたくなってしまう。どんなに張りぼてを身に付けて、意地をはって、自分を強く見せても、ちっとも変わることができない。本当に惨めだ。消えてなくなってしまいたい。そう思うのもいけないことなんだろう。
頑張っているつもりなのに、結局同じところで足踏みをしているだけみたいだ。成長したと言われても、こうして極端にうつになる時期があることに代わりはないのだ。成りをひそめているだけで、本当の私は弱くて惨めでちっぽけでプライドだけ高い死にたがりのくそがきだ。何一つまともにできやしないくせに、少しの誇りにすべてをかけて自分を保っている。それのなにがいけないんだ。選ばれた特別になれない私に価値はないのに、どうして私は特別になれないんだろう。
「私は親が精神病で、親戚のほとんどから心理的虐待かネグレクトを受けていたので、心がとても弱いです。みなさんの何気ない一言でとても傷つくので、配慮してください」とでも言えばいいのか?あるいはそういった存在として見なされているのか?だとしたら、私がプライドを守るために死ぬことは許されるのではないのだろうか。
死ぬことができない理由はたくさんある。でも私にとっては、それと同じくらい大きな死ぬに値する理由がある。それをなくすことができないのに、どうして生きていられようか。被害者ぶってて笑える。お前だけが不幸な訳じゃないし、お前より不幸な人はたくさんいるし、それでも頑張ってる人もたくさんいる。甘えてるだけだ。自分の人生に酔ってるだけだ。じゃあどうすればいいんだろう。どうすれば誰も怒らなくて、どうすれば私は許されて、どうすれば私は普通になれて、どうすれば私は幸せになれるんだろう。私の何もかもが間違っているせいなのか。だとすれば、私はどうすればいいんだろう。そんなの自分で考えることで、他人に甘えることではないのに、すぐ人に頼って、助けてもらえばいいと思っていて、かわいそうな自分のままでいる。

読んでくれた人、ごめんなさい。あなたの幸せを心から祈ります。

生きていくために忘れること

ママに会いたいし、パパに会いたい。
ママもパパも大好きだけど、でも許せない。

私の誕生日は九月で、その年の三月が両親の結婚記念日なのをつい最近知った。三杯めのビールで機嫌のよくなった祖父が「お前の父親は研究所に内定が決まっていたけれど、お前ができたので諦めてこっちに残ることになったんだ」と言っていたのを思い出させた。私が生まれたとき、父も母も23になる年だった。だから、私は大学四年のカップルに仕込まれて、卒業の時期に存在が判明して、色んな人の諦めと落胆の末に生まれた子どもなのだった。

ふたりは親という役割を担うことのできる人間ではなかった。可愛がられた記録と、可愛がられなかったわたしが今残っている。Zガンダムカミーユが言っていたように、私も親に親をやってほしかったのだ。
手に入れられないものになってしまったし、取り戻すこともできないし、取り返すことも、やり直すこともできなくなった。私は来年、両親が私を仕込んだ年齢になる。真っ当な人間になるための時間はもう少なくなってしまったけれど、何かあるたびに死にたくなってしまうし、何もかもが欠けているままだ。それを満たしてくれなかったのは、今満たすことができないのは、間違いなく両親のせいだ。でも誰が彼らを責められるのか。私を生むまでは確かに二人も被害者だった。

あの夜、父親が泣いていたとき、ママを助けられなくてごめんな、と言われたとき、私はなんと返したのだったろう。思い出せないことが増えていく。生きていくためには、そうやって両親のことを切り捨てていくしかないのだろう。同じようにならないために、ひとりの人間になるために。

わたしの昔のお城、今のわたし

中学生の頃、引きこもってて暇だったのもあって、ナノで二次創作サイトをやってたんですよね。自分の好きなキャラを自分と同じ精神状態にさせるのが好きで、それだけが楽しくて、拍手もらえて嬉しくて、すごくよかったんです。その頃に書いた小説にいくつかお気に入りがあって、いまでもそれはなんとなくちらっと思い出せるんだけど、もう読めなくて、読みたくて、再現もできなくて最近悲しくなったりして。それだけなんだけど。

自分の中にあるものをもっと表現したくて、それは創作行為でも研究でもいいんだけど、自分はもっとなにかできる、という思いと、形になりそうなもやもやしたなにかがずっとある感じがあって、でもいざやろうとすると何にもならない。自分は別に特別じゃない、ということを理解してないんだと思う。私の家族はみんな頭がいいので、わたしもご多分に漏れず、という扱いをされているし、溺愛されているので、「あんたはすごい、特別な人間、これからの社会を変えるんだ」と言われ続けているので、人格が歪むのも納得できる。でも、今の自分のままじゃ、今自分がやろうとしてることはうまくできないと思う。だからいつまでもこのままじゃいれない。わたしはもっと立派になりたい。これまでの人生を見返してやりたい。だから、注意されるたびに自分が砕けてなくなってしまうような気持ちになるようじゃ、何にもならないし何にもなれないし、生きていけない。