人参のグラッセが嫌いだ。

人参のグラッセが嫌いだ。

家で食べるハンバーグには、やっぱり中濃ソースとケチャップを煮詰めたソースをかけたい。そして、人参を添えたい。

独り暮らしなのに、野菜の詰め放題にむきになって、食べきれない量の人参を抱えている。昨日は人参じゃが。今日は人参炒め。明日は人参カレー。食べ過ぎはどんなものであれよくないのに、と思いながら、人参を刻む。人参の鮮やかなオレンジは毒々しいほどに鮮烈で、わたしにあの痛ましい日を思い出させる。

 

小学校の、最後の運動会だったろうか。

父子家庭になって2年。わたしは母の遺した日記にありありと書かれていた両親のまぐわいに吐き気がして、父方の実家を飛び出し、父を避ける形で母方の祖母のもとに身を寄せていた。父が来ても押し入れに隠れたし、呼ばれてもでなかった。父はしばらくの間玄関で待っていたけれど、わたしはどこかミッションをこなしているかのような高揚感を伴って、それを放置していた。父が帰ればやりきったという気持ちになったし、今思えば、父にたいしてつれない態度をとるのはまんざらでもなかったのだ。

わたしがこんな風に、父とうまくいかなくなったのは、そもそも父が勝手な結婚と勝手な離婚を母としたからだ。わたしという存在が二人の人生を絡ませはしたけれど、それはわたしのせいではなくて、大学卒業前にもかかわらず二人が避妊をしなかったからだ。父が粘着男で、母がメンヘラだったからだ。粘着男は結婚してすぐ他の女に走り、メンヘラ女は立派なボーダーに育った。わたしはそんな二人のもとで、都合のいいときだけ子どもとして可愛がられて育った。

だから、わたしが助けなければと思って一緒にいた母が死んだあと、それだからといって父とうまく行くはずがなかったのだ。物心ついた頃から家にあまりいなかったし、ときどき一緒に出掛けたり、機嫌のいいときに遊んでくれただけで、部屋にこもって一人で遊んでいた父。わたしは本当に父に愛されていたのか?わからなかった。父はすぐに新しい彼女を作ったし、仕事も忙しかった。母を失った悲しみを共有するだけの強さが、わたしたち親子にはなかった。わたしは弟をいじめて人生をごまかしたし、逃げるようにずぶずぶとオタクになった。

そんな時期だったのだ。小学校の最後の運動会は。

父がお弁当を作ってきた。

どうしてそうなったのか、何を話したのか、何も覚えていないけれど、固くて味の薄いハンバーグと、甘すぎる人参のグラッセの味は、今も思い返せば舌にまとわりついて離れない。わたしはそれを、あまり食べなかった。

だっていやだったんだ。父親が父親であることが。許せなかった。受け入れられなかった。そんないきなり、一緒にいられなかったし、ママを苦しめていたのはこいつだと思うことで、ママが死んでしまったことを受け入れていた。

本当はそうじゃなかった。誰か一人が悪いわけではなくて、母方祖父母も父方祖父母もおかしくて、母も父も小中でいじめられていた。何もかもがぐちゃぐちゃだったのは、二人のせいではなかった。わたしからしたら、わたしを生み育てようとした加害者ではあるけれど、確かに二人は被害者だった。

 

だから父もあっさり死んでしまった。中学2年の夏だった。

わたしはその頃父が大好きだった。それまでの反動みたいに、弟と3人でダブルサイズのベッドで無理矢理寝たし、いつも弟と父の部屋に入り浸っていた。父の彼女にはやきもちをやいたし、実際相手の性格もあってうまくいかなかった。学校にも行く日が増えたし、少しずつ人生は整っていっていた。4月に、二人で山奥までドライブに行った。峠をドリフトする父は楽しそうで、わたしは保育園の頃と同じように、助手席でけらけら笑った。父の仕事は馬鹿みたいに忙しくて、休みの日でも呼び出しがかかればすぐに出ていった。ご飯を食べない日が増えて、たまにむちゃくちゃな量のジャンクフードを食べてはひたすら吐いていた。部屋で寝込んでいることが多く、わたしに対しても変な意地悪をしてくるだけだった。

部屋にヘリウムガスを運び込む父を見て、わたしはちゃんと「変なことに使わないでね」と言ったのだ。職場のイベント用だと言う父を信じたかった。それなら車庫においておけばいいのに。わざわざ2階の部屋に運ぶことはなかったのに。一番怪しいと気づいていたわたしが、部屋から運び出せば良かったのに。

最後の日、父と喧嘩した。いやになって出掛けた。夕方帰ると、机の上にはCDがあった。わたしが欲しがっていたやつの隣に売っていたやつ。でもわたしは機嫌が悪くて、それすら嫌な気持ちになった。すぐそうやってもので機嫌を取る。パパは部屋から出てこない。部屋でネットが使えるようになるよ、といってUSBをくれようとしたけど、それもそっけなく返した。寝る前に、なんとなく、部屋に行って、おやすみと言うことにした。ドアを開けるとパパはなぜか上機嫌で、たぶんお酒を飲んでいるんだろうと思った。

「おやすみ!」

とても元気だった。最近そんな大きな声聞いたことなかった。お気に入りのソファで、お気に入りのお酒を開けていた。隣には、ヘリウムガスのボンベを置いて。

わたしは自分の部屋ではなくてエアコンのある部屋で寝ていたので、父の部屋の真下だった。夜中になにかごとごとと音がしたけど、そのまま寝入った。

朝、パパは死んでいた。

祖母が叫んでわたしを呼んだ。青白くなった父を揺する祖母を見て、「あんまりさわらない方がいいんじゃない」と言ったのを覚えている。弟に上にいったらダメだよと言って、朝御飯を食べさせて、パパの彼女に電話して、そして、そして、そして。

それからいろんなことがあった。人生で最悪の時期だった。何年たってもわたしの人生にこびりつく、嫌な思いを死ぬほどした。

パパが最後にずっと聞いていたのは、Nickel BackのSomedayだった。いつか、全部うまくいくようになるから。

 

パパが大好きだった。今でも大好きで、死んでいることをふと思い出してはつらくなる。だから、あのハンバーグと人参のグラッセを、どんな思いでパパが作ったのか考えると、それを残した自分の攻撃性を許せなくなるし、わたしがパパを殺したような気持ちになる。

パパはわたしにひどいことをたくさんした。殴ったり、おもちゃを捨てたりした。でも、一生懸命優しくしてくれて、2人で一生懸命、親子になろうとした。

 

今年でたぶん10年目。わたしはまだ何も受け入れられなくて、だから、人参のグラッセが嫌い。