わたしという存在、インターネットにおける所在

わたしとTwitterの話

 

リプライでいただいたお言葉にはっとさせられて、少し自分について考えてみました。

わたしのメインアカウント(うつつのゆめみ)は、いまのアイコンでしばらく固定になっています。いまのアイコンは自分でアイコン用に描いた絵なのですが、意図したのは「影坊主で目玉人間を作るときのポーズ」です。

わたしのサブアカウント(ゆめみのうつつ、鍵)は、メインよりも現実の情報が多かったり、万が一にも特定がされないようにという住み分けようで作ったものですが、そのアイコンは「自分の影を撮った写真」です。

わたしのリアルアカウント(非公開)のアイコンは、「他者が撮ったわたしの後ろ姿」です。

ちなみに、うつつのゆめみの前は不適応ちゃん、その前はばっどちゃん、というのが主に使っていたハンドルネームでした。ばっどちゃんは「life is bad」という、既存の曲(badがgood 大好きな曲になんてことを)のもじりからできた名前です。うつつのゆめみという名前は、元々漢字で「現野夢見」と書くつもりでしたが、どう見てもげんのなので、ひらがなになりました。

 

さて、わたしの専門は心理学のなかでも深読みが大好きなジャンルなのですが、自分なりにその辺の知識を援用して自分という存在をいかにインターネットの所在に落としこんでいるのか、その存在のありようとはいかようなのかということを、つたないなりに考えてみました。

わたしのアカウントは、「インターネット用ーリアル用」という二極で並べてみると、「うつつのゆめみーゆめみのうつつーリアルアカウント」というならびになります。呟いている内容としては、

「うつつのゆめみ」現実の情報よりも自分の内面を吐露することがメイン

「ゆめみのうつつ」現実の情報に基づく自分の情緒の吐露がメイン

リアルアカウント」現実の情報に基づく自分の状態、出来事、現実の人間関係でしか共有し得ない情報の吐露

という感じに大別できるのではないかと思います。

 

アイコンはというと、

「うつつのゆめみ」影を作るポーズの絵

「ゆめみのうつつ」自分で撮った自分の影の写真

リアルアカウント」他者の撮った自分の後ろ姿

ということで、実在度が増していくのがわかるかと思います。絵から写真に、自分から他者に、という、存在の確実性が増し、それは内容のリアリティと相関関係にあるようにも思えます。

 

ここからがわたしが一番ときめいた気付きです。

アイコンと内容のリアリティは「うつつのゆめみ」「ゆめみのうつつ」「リアルアカウント」で増していくわけですが、前二つのアカウントのアイコンには逆転現象が見られます。「うつつのゆめみ」が「影を作る(己を投影した)主体」であるのに対し、「ゆめみのうつつ」が「己の影」であるからです。つまり、この二つの写真の関係性を象徴的にとらえるなら、「うつつのゆめみ」がなければ「ゆめみのうつつ」は存在し得ないという極論さえ思い描くことができるのです。ポーズは異なりますが、両手を使わなくても自分の写真を撮ることができたなら、おそらく同じポーズにしていたはずです。

これには、「うつつのゆめみ」が先に作られ、「ゆめみのうつつ」がそれを補う形であとから作られた、という時間的な事実関係に依拠する部分としない部分があります。名前については、「ゆめみのうつつ」というのはあきらかに「うつつのゆめみの現」という「うつつのゆめみ」の存在ありきでつけたものです。これは意図したところです。ですが、「ゆめみのうつつ」のアイコンは、スマホに入っていた写真の中から何となく選んだもので、わざわざ用意したものではありません。

このような偶然に意味を見いだすのがたまらなく楽しい。

何が言いたいかというと、わたしの現実とはなんなのか、ということがおそろしく複雑に絡み合ってあいまいになり、しかしそれが鮮明に、この三つのアカウントのアイコンに現れているなあと思うということです。

わたしという「物理的な存在」は、いま布団のなかでスマホをいじっているわけですが、その物理的な存在をわたしたらしめ、このインターネット上に文字として漂流せんとするのは、わたしという「非物理的な存在」だと考えることができるかと思います。物理的な存在とは質量や形体をもち、現実世界に存在する人間そのものであって、わたしという存在はその入れ物に非物理的なわたしが封じ込められてこそ活動ができるのだと思います。これは遠回しな表現である一方でこれ以上のなにも意味しようとしていない文ですが。

わたしが一番本音を吐き出すのは「うつつのゆめみ」だったのですが、いまはやや「ゆめみのうつつ」に移行しつつあります。わたしの一番わたしであるものを任せる場所は、おおざっぱにいえば「絵」という「空想のひとつ」によって存在を表現しています。しかも自分の理想像としての絵なわけです。そしてその「絵であり空想のひとつであり自分の理想像」のなかで現実と繋がる部分を任せるのは「物理的な存在としての自分の影」なわけです。影というとその概念についていろいろより考えたいところがありますが眠くなってきたのでできません。つまり、非物理的な存在によって物理的な存在、しかもその影が形作られているわけです。パワーバランスがあまりにもおかしいと思いませんか。思いませんよね。これはわたしの妄言です。

「空想と現実」という二項対立でいえば現実のほうが重いのはあたりまえなのに、「身と影」としてとらえれば身のほうが重いのはあたりまえなのに、このふたつのアカウントでは「空想と身」と「現実と影」になっているんです。それが、本当にわたしという存在を現しているなあと思うわけです。

そして、Twitterにおける現実の究極であるところのリアルアカウントは、「他者が撮った自分の後ろ姿」なんです。「人から見た自分」なんです。そして、その自分は人に背を向けている。背中というのは無意識を表すという見方もあります。

 

なぜ「うつつのゆめみ」という名前をつけたかというと、響きがよかったというのもあるのですが、言葉として相反するというのがすごく重要でした。わたしは現実と空想について大学でちょこちょこやっていたのですが、夢は空想側に分類しています。わたしは現実を生きるのがへたくそでいつもふらついて浮き足立っているような人間なので、空想や夢に逃げ込んで延命している節があります。だからこそ、うつつとゆめ、という関係はわたしにとってとても大きなものです。そこに「の」と「み」を補って作った名前です。

では、ゆめみは夢見として、「の」とはなんだったのでしょうか。別にうつつがはらとか、うつつざきとか、何でもいいじゃないですか。「の」にも意味を見いだすことは可能です。それは、助詞として機能する、という点です。現代語でいえば「の」は所有とかになりますから、助詞としてとれば「うつつがもっているゆめみ」となります主体はうつつになりますね。つまりあくまで「うつつのゆめみ」という現実からの逃避先においても、その存在の基盤は現実であるわけです。ですが、「ゆめみ」なので、主体であるうつつは夢を見ているわけです。単に「ゆめ」であるのではなく、ゆめこでもなくゆめのでもなくゆめたろうでもなく「ゆめみ」であるということで、そういう意味合いが付与されます。つまり、うつつはうつつでありながら現を見ているのではなく、夢を見ているので、あくまでわたしからみた空想の世界であるという図式になるかと思います。

対して、「ゆめみのうつつ」は、ゆめみを名前ととらえて、「ゆめみのもっている現」という感じです。主体がゆめみになっています。頭がこんがらがってきました。つまり、「うつつのなかにあるうつつがみているゆめのなかにあるうつつ」ということです。つまり、現ではないのです。

では、わたしの現とはどこにあるのか。

リアルアカウントの名前は本名なのですが、その写真は「他者に背を向けている自分」です。つまり、現実で面と向かって話す関係である人間しかいない状況において、正面からではなく背中から付き合おうとしているわけですね。

 

言葉にすると野暮すぎておさまりがつかなくなっていきます。

本当の自分をさらけ出せる場所が本当の自分を表しているのだとすれば、わたしの本当の自分は、物理的なものではないのかもしれない、ということでした。それは常々感じていることで、現実に溶け込んでいないからこそ楽しめるものがたくさんあるのでいいんですが、こんなとこにも現れているんだなあと思って感動してしまって、ついうまく回らない頭でこんな書き連ねてしまいました。眠い。

いつかうつつのうつつという名前で人に撮ってもらった正面からの写真をアイコンにしてTwitterをやる日が来るのか、という話になりますが、そんな日は死んでも来ないです。なぜなら、Twitterという場所がそもそも現のなかにある夢のような場所だから。