鳩がつぶれて死んでいた

鳩がつぶれて死んでいた。もっと具体的に言えば、電線の真下にある道路の真ん中から少し右にずれた辺りで、頭を側溝側にして、左側を走ろうとするわたしに尾っぽを向けて、ぴくりとも動かない羽の塊が落ちていた。たぶん頭がつぶれていたようで、不自然にそこがへこんでいたのだけど、かといって車に引きずられたようなあともなくまわりの道路もきれいで、鳩が勝手に死んだみたいにすら思えて、まるで飛び降り自殺みたいだった。鳥なのに。

 

わたしはメンヘラじゃない。

といえば嘘になる。でもメンヘラって自己申告だし、だからわたしはメンヘラじゃないことにしておく。少なくとも、今みたいに気持ちの前向きなときは。その乱高下こそがメンヘラがメンヘラたる所以のひとつでもあるけど。

わたしは人に感情移入しすぎるらしい。

 とはいっても、その対象が苦境のなかにいて、精神的苦痛に押し潰されそうになっている状況に限る。つまり、ただの投影。

 

このふたつが特性としてわたしに備わったのは、他ならぬ家庭環境と、わたしを助けられなかった児童福祉と、わたしを迫害した学校教育によるところが主だと思う。

わたしは自分の家庭環境と自分の特性がスタンダードだと思って生きてきた。わたし自身のスタンダードであるだけでなく、普遍的なものだと思っていた。だからこそ、不登校になった自分はみんなにくらべて努力不足だとか、なまけているとか、思ったり言われたりしてそれを享受していた。精神的な自傷行為もまた気持ちがいい。

わたしはそうやってずっと、自分が普通だと思って生きてきた。だってわたしは自分の世界しか生きたことがないし、自分の世界の中心は自分だから、その世界のなかではわたしが基準で指標なのだ。

その世界の根幹を揺るがしたのが、大学の講義だった。

知ってはいたけどわたしはどうやら精神に障害があってもおかしくない生育歴の持ち主で、認知の歪みはばりばりにあるし、情緒的発達も不十分で、すなわち、集団においてはまれな、異常側の人間だった。

「どうしてそんなに元気なの?」

「大変だったのに、えらいね」

 「強いね」

そういうことを言われるためにここまできたわけじゃなかった。わたしは、自分自身のために、もがいて、はいずって、みんなに追い付きたくて、家族に認められる優秀な人間であることを証明したくて、だから、そんな驚かれたくなった。わたしは徹頭徹尾正しいことをしてきたのだから、そこに驚くようなことなんてないはずなのだ。

だって驚かれたら、「病気になっていることが正しくて、大学で成績上位に入るのはおかしい」みたいだ。

そうやって、「普通」との比較をされて、自分でもして、「あー自分は場違いだなあ」と思ったりして、感傷的になっちゃったりして。

わたしは自分の野望を達成するために心理をやるし、わたしのぼろぼろで鋭敏な感受性は使いこなせば「健全で鈍感なあちらがわの人たち」にはない武器になると思ったし、これは助けてくれなかった過去の大人や助けてもらえなかった過去の自分のための復讐でもあった。

でも、心理をやってるのはたいてい「あちらがわの人」で、心理に求められるのは「健全な鈍感さ」だった。ケースに引きずられないようにと釘を刺される。ミイラはミイラ取りになれない。

それでもわたしはまだ大学に通って、院を目指している。

それは結局、「強い自分」が「弱い自分」を助けるすべを学ぶためで、あんまり人のためではなかったりするんだけど、まあうまくやれるようになったらそれなりの仕事について、「あちらがわ」にはできないことをばりばりやりたいという野望も、捨てきれないでいる。

「弱い自分」はといえば、このまま病気になって一生メンヘラでいたい、とか思っている。健全なんて真っ平だ。健康で元気な自分なんてかりそめで、躁転してるだけで、またすごいうつがくるんだから、下がるための上昇なんてなくていい、ないほうがいい。健康になるのはさみしい。ずっとこうやってどんより生きてきたんだから。悲劇のヒロインぶっていたい。誰もわたしを助けてくれなくて、わたしはひとりぼっちだと、泣くことが好きなのに。なんて思ったりもちゃんとしている。

 

わたしは鳩なのかもしれない。飛び降り自殺をする鳩になるのかもしれない。飛ぶのかもしれない。飛んでいるのかもしれない。飛ぼうとしているのかもしれない。