森の中へ

イントゥ・ザ・ウッズを観て興奮のあまりあふれでた妄想をかたちにしておきたい。

 

わたしは童話やらの象徴的な解釈が大好きで、もちろん童話もおとぎ話も大好きなので、「童話のハッピーエンドのその後」というのに惹かれて手に取ったのだけど、正直言って前半はとても退屈だった。このまま終わるんだとしたら途中で観るのをやめたいな、と何度か思った。あまりにちんけな話に思えた。けれども、「童話のハッピーエンドのその後」が始まると、とたんにわたしは興奮を止められなくなってしまった。わたしのなけなしの知識をこれでもかというほど刺激してやまなかった。

これは作品へのリスペクトをこめた、わたし個人の受け取りかたを書き連ねるだけの記事なので、もろもろの権利の侵害や他の人の感想の否定、意味付けの固定を意図するものではないことをここに明らかにしておきます。わたしはこんな楽しみかたをさせてもらいました。ありがとう。

 

結末部分に至るまでの重要な内容が含まれるので、閲覧の判断は各自でお願いします。

 

主要な登場人物は、パン屋を営む子供のいない夫婦、その隣に住む魔女、母と牛と暮らす貧しい少年、祖母を訪ねに森へ向かう少女、王子と結ばれることを夢見る貧しい娘、塔に幽閉された娘。夫婦と魔女以外には具体的なモチーフの童話があり、それぞれ『ジャックと豆の木』『赤ずきん』『シンデレラ』『ラプンツェル』で、魔女はラプンツェルの育ての親としてのアイデンティティは付与されています。

ストーリーは長くなるので割愛しました。興味深い要素だけ抜き出しています。

 

これらの登場人物は、「勇敢な妻との間に子供が生まれない頼りない男」と「塔に幽閉した娘にすがり付く母親」と「母と暮らす少年」と「母の言いつけを聞き祖母のもとへ向かう少女」と「継母たちのいじめから、亡き母の墓に泣きつく娘」と「塔に幽閉され母に支配された娘」といった図式で前半に描写されます。この話も類に漏れず、父性や父親といった存在が排除されています。

呪いが解け夫婦が男の子を授かり、魔女が若返り、物語が定められたハッピーエンドを迎えると、「魔女が育てた豆を、妻が姫にあげ、姫がそれを投げ捨てたことで」、「女の巨人」が空から降りてきます。その巨人は、「魔女が育てた豆を、夫が牡牛と引き換えに少年にあげ、少年がその豆でできた木を登り、巨人から金の卵を盗み、それを見せられた少女が信じなかったので、少女を信じさせるために金のハープを盗んだところ、追いかけてきた男の巨人を殺した」ことによって、「夫を失った妻」です。巨人は王国を踏みあらし、それによって赤ずきんは母と祖母を失います。

巨人はジャックを探しているので、シンデレラの継母たちや王子の付き人はジャックを探しだし差し出そうとしますが、ジャックの母はそれを止めようとして死んでしまいます。

夫婦は帰る場所を失った赤ずきんに赤ん坊をあずけて、手分けして森を進みますが、その最中に妻は王子と出会い、夫はシンデレラと出会います。シンデレラも巨人によって母の墓を失っています。

さて妻は、王子とのキスによって混乱し、夢と現実の間で巨人から逃げ崖から落ちて死んでしまいます。王子は妻とのキスによって奮い立ち巨人退治に向かいました。

その後妻にもたせたマフラーをつけたジャックと出会い、夫は妻の死を知ります。

これで真の決別のために必要な要素がそろいました。

夫は妻の死をうけて、巨人を怒らせたジャックを責め、ジャックは豆を自分にわたした夫を責めます。赤ずきんはそれをきいて、ときに夫に味方し、ときにジャックに味方します。そして、シンデレラは己の責任に気づき、ジャックは赤ずきんに責任を問います。そこに魔女が現れ、みなが魔女が豆を育てたせいだと魔女を責めると、魔女は自分のせいにする代わりにジャックをよこせ、と言います。そしてそれを拒んだ彼らに、魔女が新たにまいたいくつかの豆を世話しろと呪いながら、母へ新たな罰を乞い、タールの沼になります。

魔女が消えるとそれぞれは自分達の責任を受け止め、協力して巨人を倒すことにします。そのなかでシンデレラは王子の裏切りを知り、目の前のお互いではなく王子とそれぞれが夢見た相手を愛することを告げあって決別します。

巨人はタールの沼に足をとられ、ジャックの投げた石つぶてによって倒れ絶命します。そして、夫と赤ん坊、赤ずきんとジャックとシンデレラは、一緒に暮らすことになりました。

 

これを、夫を主人公と見立て他のキャラクターをすべて「象徴」として解釈します。嫌な予感がしたらやめておいてください。わたしも自分で傲慢なことをしようとしているなと思います。

子供が生まれるためには、「魔女」というネガティブな母なるものからうけた呪いを解かねばなりませんでした。そのために必要なのが、白い牡牛と赤い頭巾と黄色い髪の毛と金色の靴だったところについては、いくつか考察している記事もあったので割愛します。問題は子供が生まれたあとです。

男は親になることができませんでした。それは自らが母を失ったあと父に捨てられたからでもあります。最後に男が親になることを決意するまでに起こったのは、「妻との死別」「魔女の消失」「少年・少女・姫との結託」「女巨人の退治」でした。これを、強すぎる母なるものの存在から決別する過程であるとわたしは感じました。

まず妻。物語の前半では、男の伴侶として、呪いを解くために、ラプンツェルの髪をちぎったり、シンデレラと靴を交換したりします。ラプンツェルは男の妹を魔女が育てた娘なのも興味深いです。妻は見事に男を助け、森の中での苦難を乗り越えた夫を称賛し、見違えるような頼れる男になったと言います。そして子供が生まれ、妻は「母」の属性を得ます。森の中で妻は赤ん坊を抱きたがらない夫を責めます。そして自らが率先して一人で森の中をゆき、王子という「夢の中の存在」に出会い心を揺り動かされるうちに退場します。ちなみに王子にとっては妻こそが相対する世界に住む「夢の中の存在」であり、その妻とのキスによって力を得て旅立っていく、というのも興味深いです。つまり、母という属性を得た以上この男を主人公とした世界からは退場しなければならなかったのではないでしょうか。

次に魔女。魔女は男に呪いをかけた張本人で、男のこの一連の試練の元凶です。魔女は最後にジャックという少年を求めますが、叶わず男たちの結託に気圧され自らタールの沼になる道を選びました。このタールというのは、物語の前半で王子がシンデレラを引き留めるために階段に塗ったものでもあり、使われ方としては男が女を足止めするみたいな感じでした。

最後に巨人。巨人はでかすぎる女というそのままのイメージがしっくりきます。

男は、母なるもの、ネガティブな母なるもの、大きすぎる女性を、少女と少年と娘と結託することでのりこえ、己の赤ん坊を育てる姿勢にはいることができたのではないかと感じました。男が親になるためには、魔女のまいた種によって、天と地が繋がり、少年が災厄を天から呼び寄せなければなりませんでした。それを乗り越えるのには、母ではない女性性の力が必要だったのかもしれません。

あまりこういう言葉を使わないようにしたのですが、グレートマザーにのみ込まれた状態から、トリックスターが事態を急変させ、新たなアニマと出会う、という大きな流れかなあと感じて、ものすごく勝手に興奮してしまったわけでした。

 

本当はもっともっと考えるべき内容や面白い表現がたくさんあるんですが、わたしの力量ではわたしの拙い知識から連想してしまった妄想しか書き記すことができないので、ぜひ、これを読んでくれたなんて奇特な人がいたのなら、そういう少し穿った目でも観てみてほしいと思います。歌うまいし絵も綺麗だし話もいいし、素直に素晴らしい作品だと思います。しかし、その背後には多くの童話と同じように、こういう象徴的な表現が溢れていて、だからこそこんなにも人の心に響くのかな、という気がしてしまいます。

 

 

悪とメルヘン―私たちを成長させる“悪”とは?

悪とメルヘン―私たちを成長させる“悪”とは?

 

 この本、すごく面白かったです。

明日の明け方に

あなたのために火をおこそう

朝から夜への別れのために

夜から朝が見渡せるように

小さな火しか点らないこの手にも

あなたのために火をおこそう

あなたが夜に迷わないように

あなたが朝に辿り着けるように

ながいながい夜の空を

凍えながら泳ぎ続けたあなたに

ながいながい夜の空で

灯りをひとつ守り続けたあなたに

いつか明くるあなたの空から

わたしのいるところが見えるように

いつか来る明日の明け方に

あなたのために火をおこそう

こばなし

日が落ちはじめた空は、あたたかく溶けるような色の光をまちに落とす。木も、家も、花も、道も、人も、その影を薄くのばしたぶんだけ、それぞれの色を空へ明け渡し、その光の色を享受している。ただ流れる川の水面だけが、その光を集めては放ち広げては仕舞いこんでいる。
がたんごとん、がたんごとん。
ずいぶん遠くにあるはずの線路から、光の合間をぬって電車の音が響いてくる。ぼくは乗ることのできない電車。帰るでも行くでもなく、揺れ続ける電車。空の色を受け止めた葉っぱが、その音に似たリズムでもとの色を覗かせてはまた空の色に染まる。
「タクシーは要りませんか」
ぼくの足元から、郵便ポストを担いだてんとう虫が声をかけてきた。要りません、と応えると、てんとう虫は来た道を帰っていく。ぼくはてんとう虫に八百屋の場所を訊かなければならなかったのに。呼び止めようとしたときには、てんとう虫はもう狼になっていた。送り狼になってはいけませんよ、と川の向こう岸から声がする。
「送り狼になってはいけませんよ、送り狼になってはいけませんよ、紙飛行機を一機、紐で結わえてこちらへ送ってくださいね」
向こう岸には、町内放送のためのスピーカーがひまわりと交互に並んでいる。
「おかあさん、ごはんはまだですか」
ぼくは叫んだ。
「明日は図書館に行く日だから」
スピーカーが揺れた。スピーカーは竜胆なのだ。スピーカーは水仙なのだ。スピーカーはぬばたまの烏が落としたビードロのしずくなのだ。スピーカーは明日咲くつぼみを静かに揺らした。
明日は図書館に行く日だ。図書館に行く日は、おかあさんが握ったおにぎりとぼくが握ったおにぎりをアルミホイルでくるんで、晩御飯の残りをつめたお弁当箱と一緒にくまさんの巾着袋にいれて持っていくんだ。図書館に行ってぼくのお気に入りの絵本を借りて、おかあさんがガーデニングの本を借りて、帰り道にぞうさん広場でお弁当を食べるんだ。ぞうさん広場にはぞうさんがもういない。ぞうさん広場と名付けたのはおかあさんだ。おかあさんとぼくがぞうさん広場でお弁当を食べていた頃には、そこにぞうさんがいた。ギイギイ音をたてて揺れるぞうさん。いまはぞうさん広場には小さくて汚い砂場と、真新しいベンチしかない。生い茂った雑草とそこを住み処にする虫を嫌ってだれもそこを訪れない。ぼくもそこを訪れない。ここはすべてが嘘なのだから。
「おかあさん、ここはすべてが嘘ではないですか」
ぼくは叫んだ。
「明日は図書館に行く日だから、紙飛行機を一機、紐で結わえてぞうさんに渡してくださいね」
ぼくは知らないふりをする。おかあさんもぞうさんもいなくなった朝へ向かう電車を逃したまま、ぼくは眠ったふりをする。空はかけあしでぼくを明日へとつれていこうとする。まだだ。ぼくはまだここにいる。朝はまだ、ぼくのもとへ訪れてはならない。

「おかあさん、ばんごはんはまだですか」
夜の闇につられて魚が跳ねる音がした。

明日の自分によろしく

一日ごとに自分が死んでは生まれていく気分になる。

 

わたしの人生には今日しかない。昨日の自分との連続性がないから、毎日、時間が進むということがわからないし、同じ日をずっとやり直している気分になる。でもそんなことはなくて、昨日の自分が食べてしまったものや、取り付けた約束や、やらなかった課題や、動かしてしまった歯車は、全部わたしに影響するのだ。

昨日の自分の考えていたことは、今の自分には理解できなかったり、納得できなかったり、とにかく自分の考えていたことだと思うことができない。

 

一分一秒で、自分の気持ちがころころかわって、それに振り回されていきている。

みんなわたしのことを、よくわからないだとか、変なやつだとか、いろいろ言うけれど、わたしが一番わたしに振り回されていて、わたしが一番そう思っている。

でも人を振り回して傷つけて迷惑をかけるのも確かだ。

人の気持ちがよくわからない。

わたしは人の気持ちがわかると思っていた。

それは共感とか、そういうやつで、心の理論とか、そういうやつ。

でも、わたしが人の気持ちをわかったような気になっていたのは、理屈で考えてはじきだしていたからにすぎなかったんだと思う。

だから、自分の理屈とずれたことを言ってくる人がこわい。嫌われるはずなのに嫌われないのも、なにもかも全部わたしを騙してるんだと思う。

人間はみんなうそをつく。

言葉は嘘をつくために使われる。

言葉にしたものは全部、ほんとうのものではなくなって、足りない形がすべてになってしまう。

言葉なんてなければ良かった。

 

パパもママもきっと同じ思いをしながら生きていたんだろう。パパの遺書にも、ママの日記にも似たようなことが書いてあって、わたしはそれに安心するのだ。うそばかりの現実のなかで、死んでしまった二人の遺したものはうそにはならない。死んだ人、会えない人、どこにもいない人、それだけが本当の世界にいる人で、わたしにうそをつかない人。それ以外の人と仲良くしようとしたり、自分をわかってもらおうとするからだめなんだと思う。わかってもらう自分なんてどこにもないのに。みんなと同じようになんかできないのに。

パパの遺書には、自分の殻に閉じこもらずにたくさんの人と関わってください、と書いてあった。パパにはわかってたんだと思う。わかってたんなら、死ぬな、ばか。

 

今日の自分は今日死ぬ。

真面目な話情緒が未分化

一言で言えば情緒が未分化なのである!

 

高校一年生のとき、コスプレをやっている友達に付き合ってイベントに行ったら、コスプレ参加しているとある男性にやたら気に入られ、付き合ってほしいみたいなことを言われた。

わたしはそのとき、好意を持たれるのはうれしいしわたしも好意を持っているけれど、恋人という関係はよくわからないし、友達で一番好きな人と恋人との違いがよくわからないみたいなことを言った。

それに対して彼は、きみはアガペーの人なんだね、博愛主義者なんだね、と言った。

アガペーとか博愛主義者とかがあってるかは今日は考えません。

 

その頃からなにも変わってなかった!

 

わたしはアイデンティティがない。

自己矛盾のかたまりであり、自己の連続性も同一性も全くなく、常に脱皮をし続けているような気分で、過去の自分と自分が同一であるということもよくわからない。理屈ではわかるけど体験的には全くわからないのである。ついさっきの自分の感情を書き留めるべくこうしてフリック入力しているうちに、わたしは更新されてしまったので人のことを書いているのだ。

それなので、自己がわりと分断されていて(分析心理学的にはここで自己という表現を使うのはおかしいのでしょうが上記の表記に合わせて普通に自分という意味で使っています)、ある程度目安をつけるならば少なくとも三人の区別をつけることができる。

それは人格的に分断されているわけではなくて、時間軸のある一点がまだ残っているという意味である。

わたしは4歳、14歳、そして現在の生活年齢である21歳に、情緒がシフトする。と思う。極端に図式化すればの話である。

4歳は、死ぬほど母性を求めているので、誰にでも構ってほしいし甘えようとするし、こいつが諸悪の根元であることは間違いない。こいつが一番人付き合いもうまい。なぜなら幼いからだ。ぽけーっとしているので人間との関わりが最低限になり、かつ情緒的なコミュニケーションを求めがち。

14歳は、4歳よりはましだがいかんせん幼く、情緒に支配されている。承認欲求が強く、わがままで、一番異性に執着を持ちやすいのもこいつだと思う。つまり、4歳が母性なり父性なりを求めた相手を、こいつは異性として認識するのである。このタッグが非常に苦しい。

そして21歳はこういう文章をかけるやつである。基本的にはこいつが優位なはずである。大学院に行きたがっているのもこいつである。悩んでいるのもこいつである。

 

フロイトを引用するなれば、4歳と14歳のイドに振り回されている自我が21歳なのである。

しかしながら、4歳と14歳はわたしが生きていくために備わっている次元であるので、なくなられるとこまる。

 

さて、ここから生じる問題に論点を移すと、つまり一人の対象に対してのわたしの感情に著しい差が生じ、その葛藤が鬼のように激しいということである。

例えば、4歳がなついた相手を、14歳が異性ととらえると、わたしのなかには「保護者へ向ける愛情」と「異性へ向ける愛情」の二つが生じることになる。その二つを適度に解放・充足しないと自我のバランスが崩れるので、わたしはある程度そいつらを自由にしたり、夢によってそれが満たされようとするわけである。

それが問題だ。

わたしの夢には申し訳ないことにこれまで三人の男性がそういう役回りとして登場させられてしまっている。

そして、4歳と14歳によって、わたしには彼氏もいるわけである。

4歳と14歳の欲求を満たすために、そのリソースが多数用意され、その結果わたしは、というか21歳は、どれが自分の本当の感情なのかわからなくなるのである。

ちなみに、わたしは夢の中での感覚が非常に鋭いというか、現実に遜色ないので、夢の中での体験を決定的に現実での体験と区別することができない。つまり、夢であったこともわたしにとっては現実と同じ重みと意味を帯びてしまう。元彼と夢で手を繋いだら一日鬱になるのである。現実で会おうものならご本人様登場に14歳が歓喜するのである。

そもそも自分がばらばらなので本当の感情もくそもないのである。

ちなみにこの人格の崩れの諸悪の根元は父親だろうと思う。つまりエレクトラ・コンプレックスである。父親に恋しているのに母親という抑制がない、最悪のパターンである。父親の死によって、その後の夢によって、父への恋心がしっかり根付いてしまったのが問題なのである。これは今はどうでもいい。

 

と、理屈で言えばこうなる。

ぶっちゃけこのシステムに疲れた。

言語化してしまうと極端な話だけど、わりとこんな感じなのでは~~~~という感じ。

だから、わたしは基本甘えたいだけなので、自分が好意的に思った相手が構ってくれればそれでいいんですね。なので、友人と恋人の違いがわからない。強いて言えばスキンシップしてもいいかよくないかくらいの違いに思える。高校一年生のころと全く変わっていない。本当になんにも。

ちなみにわたしは基本4歳の情緒と欲求が根っこにあるので、基本的には性嫌悪なので、自分が処女ではなくなることに耐えられなくてずっと避けてるんですよね。どうでもいいんですけど。女になりたくないんですよね。女になりたくない。わたしはまだ女の子のはずなんですよね。そんなことはないんですけどね。21歳だけになったらそんなことは言わないんですけどね。だからわたしを4歳として扱ってくれる人間が大好きなんですが、21歳としてしかも女として扱われるのは本当にごく稀な場合を除いて以外本当にだめですね。ごく稀な場合というのは、完璧に21歳が意識の主導権を握っている場合です。

 

好きは好きで好きなんですよ。

likeとloveの違いはあるんだけど、たぶん、たぶんあるというか特別な友人はだいたいloveでそれ以外がlikeなんですけど、loveのなかに区別がないんですね。

たぶん彼氏はloveで元彼がlikeみたいなのが普通なんだと思うんですけど、どうしてもそれができない。彼氏と同格の男性は3人くらいはいます。彼氏とほかの男性の何が違うのかと聞かれたら、よくわかりません。たぶん契約関係にあるかないかみたいな、それだけ。

だから貞操観念薄いみたいな!!!ビッチみたいな!!!!精神的ビッチみたいな!!!!!!感じが!!!!!して!!!!!はい!!!!!!!

だって好きは好きでしょうが…

好きという感情が未分化なんだと思いますね。情緒が赤ちゃんなので。

 

いや~~~~なんかもう、はい。

せめて14歳がいなくなればいいのにと思いますね。

自分がひとつで連続してるのが当たり前だとついこの間知ったわけですが、すごくうらやましいですね。まあ自由度が低くてつまんなそうだなともおもうんですけど、でも楽そうでいい。単純でいい。わかりやすくていい。うらやましい。

 

まだ書かなきゃいけないこともたくさんあるんだけどもう疲れたので終わり。

 

恋の瞳は閉じてなんぼ!

結婚したら、貧乏でも楽しくやっていけるよね

人間のしあわせってなんだろう。

 

好きなタイプは年上で頭がよくて本を読む博識な物腰の柔らかい大人っぽい人です。

 

本当に好きな人とは結婚しない方がよいのだと聞いた。二番目に好きな男と結婚するのが女の幸せなのだと。

 

わたしは、解離っぽいのかなんなのかよくわからないけど、とにかく雰囲気に引きずられて情緒が著しく変化して、その際には価値観や行動様式、ものの考え方、捉え方、将来の夢、もろもろの何もかもの精神的な活動が変わってしまう。

もしも、一人でいるときのわたしが本物なのだとしたら、わたしは結婚もしたくないし性行為をしたくもないし生殖活動もしたくないし、人といたくもない。

それでもわたしは寂しくて、依存しないと生きていけないので、誰かには依存したい。だから恋人もいる。でも、一緒にいれるときといれないときがあって、好きでいれるときといれないときがあって、耐えられるときと耐えられないときがあって、恋人を振り回しがちだし、わたしの都合に、主に不安定な情緒によって、彼に臨機応変な対応を求めすぎている。

それに耐えて慣れた恋人は、わたしにぐずぐずに依存してしまった。

わたしは依存されるのが嬉しかった。わたしを必要とされることが嬉しかった。受け入れてもらえるから、優しくしてもらえるから。だから恋人とそれらしく仲良くもできた。

でもときどき、ふと我にかえると、どうしても気持ち悪くなってしまって、なにもかもが興ざめを越えて苦しくなって、意識を少し後ろに下げてしまうのだった。離人は便利なツールでもある。

 

 「好き」の呪縛が怖い。「好き」には「好き」を返すのがマナーだ。わたしに時間もお金も途方もなくつぎ込んできた彼に、不躾な真似をすることはできない。 わたしという存在が彼にとってどれだけ大きなものかということと、わたしと彼はもう同じレールの上に乗っているということと、そのレールに乗ったのは自分だということと、とにかく彼とわたしの間に存在する、彼から向けられたあらゆる感情やわたしの価値を思い知れば思い知るほど、わたしはこの底無し沼から未来を見つめる方法を思い出せなくなる。

 

あんなかわいい子供が生まれたらいいね、子供が生まれたらこんなふうに遊ぼうね、きっと楽しいよね、そうやって話したのは、うそではないんだよ。

うそではないけど、現実にいるのが苦手なわたしにとっては、その現実を叶える力がないかもしれない。きみと一緒に生きている自分を思い出すことができないときがある。刹那的な、現実的なしあわせってなんだっけ。どうやって楽しくなっていたんだっけ。きみといて、何が楽しかったんだっけ。依存させてくれるなら、誰でも良かったんじゃないの。わたしも、きみも。都合がいいやつって思われてそうってきみは言ったよね。そのとおりなんだろうね。でもきみがわたしといたいって、きみがわたしのこと好きだって、それが最初で、いまでも続いてるんだよ。

 

わたしが元気になったのはあなたのおかげです。感謝しています。だから、わたしはその恩を、あなたに返すために、あなたがわたしがいれば幸せだと言うから、わたしがいなくなったら生きていけないと言うから、たぶんあなたが好き。

鳩がつぶれて死んでいた

鳩がつぶれて死んでいた。もっと具体的に言えば、電線の真下にある道路の真ん中から少し右にずれた辺りで、頭を側溝側にして、左側を走ろうとするわたしに尾っぽを向けて、ぴくりとも動かない羽の塊が落ちていた。たぶん頭がつぶれていたようで、不自然にそこがへこんでいたのだけど、かといって車に引きずられたようなあともなくまわりの道路もきれいで、鳩が勝手に死んだみたいにすら思えて、まるで飛び降り自殺みたいだった。鳥なのに。

 

わたしはメンヘラじゃない。

といえば嘘になる。でもメンヘラって自己申告だし、だからわたしはメンヘラじゃないことにしておく。少なくとも、今みたいに気持ちの前向きなときは。その乱高下こそがメンヘラがメンヘラたる所以のひとつでもあるけど。

わたしは人に感情移入しすぎるらしい。

 とはいっても、その対象が苦境のなかにいて、精神的苦痛に押し潰されそうになっている状況に限る。つまり、ただの投影。

 

このふたつが特性としてわたしに備わったのは、他ならぬ家庭環境と、わたしを助けられなかった児童福祉と、わたしを迫害した学校教育によるところが主だと思う。

わたしは自分の家庭環境と自分の特性がスタンダードだと思って生きてきた。わたし自身のスタンダードであるだけでなく、普遍的なものだと思っていた。だからこそ、不登校になった自分はみんなにくらべて努力不足だとか、なまけているとか、思ったり言われたりしてそれを享受していた。精神的な自傷行為もまた気持ちがいい。

わたしはそうやってずっと、自分が普通だと思って生きてきた。だってわたしは自分の世界しか生きたことがないし、自分の世界の中心は自分だから、その世界のなかではわたしが基準で指標なのだ。

その世界の根幹を揺るがしたのが、大学の講義だった。

知ってはいたけどわたしはどうやら精神に障害があってもおかしくない生育歴の持ち主で、認知の歪みはばりばりにあるし、情緒的発達も不十分で、すなわち、集団においてはまれな、異常側の人間だった。

「どうしてそんなに元気なの?」

「大変だったのに、えらいね」

 「強いね」

そういうことを言われるためにここまできたわけじゃなかった。わたしは、自分自身のために、もがいて、はいずって、みんなに追い付きたくて、家族に認められる優秀な人間であることを証明したくて、だから、そんな驚かれたくなった。わたしは徹頭徹尾正しいことをしてきたのだから、そこに驚くようなことなんてないはずなのだ。

だって驚かれたら、「病気になっていることが正しくて、大学で成績上位に入るのはおかしい」みたいだ。

そうやって、「普通」との比較をされて、自分でもして、「あー自分は場違いだなあ」と思ったりして、感傷的になっちゃったりして。

わたしは自分の野望を達成するために心理をやるし、わたしのぼろぼろで鋭敏な感受性は使いこなせば「健全で鈍感なあちらがわの人たち」にはない武器になると思ったし、これは助けてくれなかった過去の大人や助けてもらえなかった過去の自分のための復讐でもあった。

でも、心理をやってるのはたいてい「あちらがわの人」で、心理に求められるのは「健全な鈍感さ」だった。ケースに引きずられないようにと釘を刺される。ミイラはミイラ取りになれない。

それでもわたしはまだ大学に通って、院を目指している。

それは結局、「強い自分」が「弱い自分」を助けるすべを学ぶためで、あんまり人のためではなかったりするんだけど、まあうまくやれるようになったらそれなりの仕事について、「あちらがわ」にはできないことをばりばりやりたいという野望も、捨てきれないでいる。

「弱い自分」はといえば、このまま病気になって一生メンヘラでいたい、とか思っている。健全なんて真っ平だ。健康で元気な自分なんてかりそめで、躁転してるだけで、またすごいうつがくるんだから、下がるための上昇なんてなくていい、ないほうがいい。健康になるのはさみしい。ずっとこうやってどんより生きてきたんだから。悲劇のヒロインぶっていたい。誰もわたしを助けてくれなくて、わたしはひとりぼっちだと、泣くことが好きなのに。なんて思ったりもちゃんとしている。

 

わたしは鳩なのかもしれない。飛び降り自殺をする鳩になるのかもしれない。飛ぶのかもしれない。飛んでいるのかもしれない。飛ぼうとしているのかもしれない。