人参のグラッセが嫌いだ。

人参のグラッセが嫌いだ。

家で食べるハンバーグには、やっぱり中濃ソースとケチャップを煮詰めたソースをかけたい。そして、人参を添えたい。

独り暮らしなのに、野菜の詰め放題にむきになって、食べきれない量の人参を抱えている。昨日は人参じゃが。今日は人参炒め。明日は人参カレー。食べ過ぎはどんなものであれよくないのに、と思いながら、人参を刻む。人参の鮮やかなオレンジは毒々しいほどに鮮烈で、わたしにあの痛ましい日を思い出させる。

 

小学校の、最後の運動会だったろうか。

父子家庭になって2年。わたしは母の遺した日記にありありと書かれていた両親のまぐわいに吐き気がして、父方の実家を飛び出し、父を避ける形で母方の祖母のもとに身を寄せていた。父が来ても押し入れに隠れたし、呼ばれてもでなかった。父はしばらくの間玄関で待っていたけれど、わたしはどこかミッションをこなしているかのような高揚感を伴って、それを放置していた。父が帰ればやりきったという気持ちになったし、今思えば、父にたいしてつれない態度をとるのはまんざらでもなかったのだ。

わたしがこんな風に、父とうまくいかなくなったのは、そもそも父が勝手な結婚と勝手な離婚を母としたからだ。わたしという存在が二人の人生を絡ませはしたけれど、それはわたしのせいではなくて、大学卒業前にもかかわらず二人が避妊をしなかったからだ。父が粘着男で、母がメンヘラだったからだ。粘着男は結婚してすぐ他の女に走り、メンヘラ女は立派なボーダーに育った。わたしはそんな二人のもとで、都合のいいときだけ子どもとして可愛がられて育った。

だから、わたしが助けなければと思って一緒にいた母が死んだあと、それだからといって父とうまく行くはずがなかったのだ。物心ついた頃から家にあまりいなかったし、ときどき一緒に出掛けたり、機嫌のいいときに遊んでくれただけで、部屋にこもって一人で遊んでいた父。わたしは本当に父に愛されていたのか?わからなかった。父はすぐに新しい彼女を作ったし、仕事も忙しかった。母を失った悲しみを共有するだけの強さが、わたしたち親子にはなかった。わたしは弟をいじめて人生をごまかしたし、逃げるようにずぶずぶとオタクになった。

そんな時期だったのだ。小学校の最後の運動会は。

父がお弁当を作ってきた。

どうしてそうなったのか、何を話したのか、何も覚えていないけれど、固くて味の薄いハンバーグと、甘すぎる人参のグラッセの味は、今も思い返せば舌にまとわりついて離れない。わたしはそれを、あまり食べなかった。

だっていやだったんだ。父親が父親であることが。許せなかった。受け入れられなかった。そんないきなり、一緒にいられなかったし、ママを苦しめていたのはこいつだと思うことで、ママが死んでしまったことを受け入れていた。

本当はそうじゃなかった。誰か一人が悪いわけではなくて、母方祖父母も父方祖父母もおかしくて、母も父も小中でいじめられていた。何もかもがぐちゃぐちゃだったのは、二人のせいではなかった。わたしからしたら、わたしを生み育てようとした加害者ではあるけれど、確かに二人は被害者だった。

 

だから父もあっさり死んでしまった。中学2年の夏だった。

わたしはその頃父が大好きだった。それまでの反動みたいに、弟と3人でダブルサイズのベッドで無理矢理寝たし、いつも弟と父の部屋に入り浸っていた。父の彼女にはやきもちをやいたし、実際相手の性格もあってうまくいかなかった。学校にも行く日が増えたし、少しずつ人生は整っていっていた。4月に、二人で山奥までドライブに行った。峠をドリフトする父は楽しそうで、わたしは保育園の頃と同じように、助手席でけらけら笑った。父の仕事は馬鹿みたいに忙しくて、休みの日でも呼び出しがかかればすぐに出ていった。ご飯を食べない日が増えて、たまにむちゃくちゃな量のジャンクフードを食べてはひたすら吐いていた。部屋で寝込んでいることが多く、わたしに対しても変な意地悪をしてくるだけだった。

部屋にヘリウムガスを運び込む父を見て、わたしはちゃんと「変なことに使わないでね」と言ったのだ。職場のイベント用だと言う父を信じたかった。それなら車庫においておけばいいのに。わざわざ2階の部屋に運ぶことはなかったのに。一番怪しいと気づいていたわたしが、部屋から運び出せば良かったのに。

最後の日、父と喧嘩した。いやになって出掛けた。夕方帰ると、机の上にはCDがあった。わたしが欲しがっていたやつの隣に売っていたやつ。でもわたしは機嫌が悪くて、それすら嫌な気持ちになった。すぐそうやってもので機嫌を取る。パパは部屋から出てこない。部屋でネットが使えるようになるよ、といってUSBをくれようとしたけど、それもそっけなく返した。寝る前に、なんとなく、部屋に行って、おやすみと言うことにした。ドアを開けるとパパはなぜか上機嫌で、たぶんお酒を飲んでいるんだろうと思った。

「おやすみ!」

とても元気だった。最近そんな大きな声聞いたことなかった。お気に入りのソファで、お気に入りのお酒を開けていた。隣には、ヘリウムガスのボンベを置いて。

わたしは自分の部屋ではなくてエアコンのある部屋で寝ていたので、父の部屋の真下だった。夜中になにかごとごとと音がしたけど、そのまま寝入った。

朝、パパは死んでいた。

祖母が叫んでわたしを呼んだ。青白くなった父を揺する祖母を見て、「あんまりさわらない方がいいんじゃない」と言ったのを覚えている。弟に上にいったらダメだよと言って、朝御飯を食べさせて、パパの彼女に電話して、そして、そして、そして。

それからいろんなことがあった。人生で最悪の時期だった。何年たってもわたしの人生にこびりつく、嫌な思いを死ぬほどした。

パパが最後にずっと聞いていたのは、Nickel BackのSomedayだった。いつか、全部うまくいくようになるから。

 

パパが大好きだった。今でも大好きで、死んでいることをふと思い出してはつらくなる。だから、あのハンバーグと人参のグラッセを、どんな思いでパパが作ったのか考えると、それを残した自分の攻撃性を許せなくなるし、わたしがパパを殺したような気持ちになる。

パパはわたしにひどいことをたくさんした。殴ったり、おもちゃを捨てたりした。でも、一生懸命優しくしてくれて、2人で一生懸命、親子になろうとした。

 

今年でたぶん10年目。わたしはまだ何も受け入れられなくて、だから、人参のグラッセが嫌い。

 

存在、あるいは夢想

電車に乗ると、思ったよりもたくさんの人間が生き生きとしている。春休みの女子高生らしき少女は、ショートパンツを早くも素足に身に付けていて、その姿が謎の寒気に包まれているわたしを震えさせた。世界は春の訪れを受け入れている。薄手のアウター、ペールトーンのスカート。わたしはまだ、タイツもウールのカーディガンも手放せない。けれども脳はずいぶん前から春の訪れを察知して、過敏に反応しているのだった。

 

春だ、と脳が察知したのは、もう一ヶ月ほどは前のことだと思う。朝起きた瞬間に、空気の広がりが違った。

冬は濃密に中へ中へと押し込まれていく空気が世界につまっている。見えない天井は空と地上を二分して、明るい雲はやたらと遠くに見える。まぶしいくらいのひつじ雲を部屋の中から眺めた日には、まだ父が生きていた思い出があるので、わたしはそんな空が好きなのだ。

春はそれとはうってかわって、空気が散り散りになっていく。雲も真綿をちぎったように広がっていく空は、深さがわからないくらいどこまでも同じ色をしていたりする。そこに空気の壁も厚みもなくて、なにもかもがどこまでも透き通って充満していく。青みを帯びていく世界は、少しずつ地面にも春の空気を芽吹かせて、また空へはなっていくのだ。恐ろしいくらいに世界は華やいでいく。

そんな世界のなかで形を保つのは、とても難しい。

 

冬はいい。まだいい。空気がわたしを閉じ込めてくれる。じっと沈殿するように、けれど水底を広がっていけるように空気が助けてくれる。けれど春は、わたしの脳をあちらこちらへ引っ張って、たんぽぽの綿毛が飛んでいくようにわたしを散り散りにしてしまうのだ。

わたしは元々この世界にいるのが上手ではない。それが先天的な原因によるのか、後天的なそれなのかは、わたしがいくら心理学を勉強しても、精神科医と話をしてもよくわからない。

この数年で、わたしはずいぶんさとくなったと思う。知識が増えたわけではなくて、世界に対する身構えかたが変わった。というよりも、世界に腰を据えているのが下手くそになった。それはわたしに恩恵をもたらしたけれど、一方で社会生活の苦痛をも、これまでのそれに上乗せする形で与えた。

この居心地の悪さをなんと形容したらいいのか、どんな言葉で表現したらいいのか、わたしにはわからない。言葉にすることができない、言葉の世界にいることができない苦痛を、言葉で扱うことができるのだろうか。

 

その違和感をなるだけ忘れることができるように、音楽や本があるのかもしれないけれど。

わたしという存在、インターネットにおける所在

わたしとTwitterの話

 

リプライでいただいたお言葉にはっとさせられて、少し自分について考えてみました。

わたしのメインアカウント(うつつのゆめみ)は、いまのアイコンでしばらく固定になっています。いまのアイコンは自分でアイコン用に描いた絵なのですが、意図したのは「影坊主で目玉人間を作るときのポーズ」です。

わたしのサブアカウント(ゆめみのうつつ、鍵)は、メインよりも現実の情報が多かったり、万が一にも特定がされないようにという住み分けようで作ったものですが、そのアイコンは「自分の影を撮った写真」です。

わたしのリアルアカウント(非公開)のアイコンは、「他者が撮ったわたしの後ろ姿」です。

ちなみに、うつつのゆめみの前は不適応ちゃん、その前はばっどちゃん、というのが主に使っていたハンドルネームでした。ばっどちゃんは「life is bad」という、既存の曲(badがgood 大好きな曲になんてことを)のもじりからできた名前です。うつつのゆめみという名前は、元々漢字で「現野夢見」と書くつもりでしたが、どう見てもげんのなので、ひらがなになりました。

 

さて、わたしの専門は心理学のなかでも深読みが大好きなジャンルなのですが、自分なりにその辺の知識を援用して自分という存在をいかにインターネットの所在に落としこんでいるのか、その存在のありようとはいかようなのかということを、つたないなりに考えてみました。

わたしのアカウントは、「インターネット用ーリアル用」という二極で並べてみると、「うつつのゆめみーゆめみのうつつーリアルアカウント」というならびになります。呟いている内容としては、

「うつつのゆめみ」現実の情報よりも自分の内面を吐露することがメイン

「ゆめみのうつつ」現実の情報に基づく自分の情緒の吐露がメイン

リアルアカウント」現実の情報に基づく自分の状態、出来事、現実の人間関係でしか共有し得ない情報の吐露

という感じに大別できるのではないかと思います。

 

アイコンはというと、

「うつつのゆめみ」影を作るポーズの絵

「ゆめみのうつつ」自分で撮った自分の影の写真

リアルアカウント」他者の撮った自分の後ろ姿

ということで、実在度が増していくのがわかるかと思います。絵から写真に、自分から他者に、という、存在の確実性が増し、それは内容のリアリティと相関関係にあるようにも思えます。

 

ここからがわたしが一番ときめいた気付きです。

アイコンと内容のリアリティは「うつつのゆめみ」「ゆめみのうつつ」「リアルアカウント」で増していくわけですが、前二つのアカウントのアイコンには逆転現象が見られます。「うつつのゆめみ」が「影を作る(己を投影した)主体」であるのに対し、「ゆめみのうつつ」が「己の影」であるからです。つまり、この二つの写真の関係性を象徴的にとらえるなら、「うつつのゆめみ」がなければ「ゆめみのうつつ」は存在し得ないという極論さえ思い描くことができるのです。ポーズは異なりますが、両手を使わなくても自分の写真を撮ることができたなら、おそらく同じポーズにしていたはずです。

これには、「うつつのゆめみ」が先に作られ、「ゆめみのうつつ」がそれを補う形であとから作られた、という時間的な事実関係に依拠する部分としない部分があります。名前については、「ゆめみのうつつ」というのはあきらかに「うつつのゆめみの現」という「うつつのゆめみ」の存在ありきでつけたものです。これは意図したところです。ですが、「ゆめみのうつつ」のアイコンは、スマホに入っていた写真の中から何となく選んだもので、わざわざ用意したものではありません。

このような偶然に意味を見いだすのがたまらなく楽しい。

何が言いたいかというと、わたしの現実とはなんなのか、ということがおそろしく複雑に絡み合ってあいまいになり、しかしそれが鮮明に、この三つのアカウントのアイコンに現れているなあと思うということです。

わたしという「物理的な存在」は、いま布団のなかでスマホをいじっているわけですが、その物理的な存在をわたしたらしめ、このインターネット上に文字として漂流せんとするのは、わたしという「非物理的な存在」だと考えることができるかと思います。物理的な存在とは質量や形体をもち、現実世界に存在する人間そのものであって、わたしという存在はその入れ物に非物理的なわたしが封じ込められてこそ活動ができるのだと思います。これは遠回しな表現である一方でこれ以上のなにも意味しようとしていない文ですが。

わたしが一番本音を吐き出すのは「うつつのゆめみ」だったのですが、いまはやや「ゆめみのうつつ」に移行しつつあります。わたしの一番わたしであるものを任せる場所は、おおざっぱにいえば「絵」という「空想のひとつ」によって存在を表現しています。しかも自分の理想像としての絵なわけです。そしてその「絵であり空想のひとつであり自分の理想像」のなかで現実と繋がる部分を任せるのは「物理的な存在としての自分の影」なわけです。影というとその概念についていろいろより考えたいところがありますが眠くなってきたのでできません。つまり、非物理的な存在によって物理的な存在、しかもその影が形作られているわけです。パワーバランスがあまりにもおかしいと思いませんか。思いませんよね。これはわたしの妄言です。

「空想と現実」という二項対立でいえば現実のほうが重いのはあたりまえなのに、「身と影」としてとらえれば身のほうが重いのはあたりまえなのに、このふたつのアカウントでは「空想と身」と「現実と影」になっているんです。それが、本当にわたしという存在を現しているなあと思うわけです。

そして、Twitterにおける現実の究極であるところのリアルアカウントは、「他者が撮った自分の後ろ姿」なんです。「人から見た自分」なんです。そして、その自分は人に背を向けている。背中というのは無意識を表すという見方もあります。

 

なぜ「うつつのゆめみ」という名前をつけたかというと、響きがよかったというのもあるのですが、言葉として相反するというのがすごく重要でした。わたしは現実と空想について大学でちょこちょこやっていたのですが、夢は空想側に分類しています。わたしは現実を生きるのがへたくそでいつもふらついて浮き足立っているような人間なので、空想や夢に逃げ込んで延命している節があります。だからこそ、うつつとゆめ、という関係はわたしにとってとても大きなものです。そこに「の」と「み」を補って作った名前です。

では、ゆめみは夢見として、「の」とはなんだったのでしょうか。別にうつつがはらとか、うつつざきとか、何でもいいじゃないですか。「の」にも意味を見いだすことは可能です。それは、助詞として機能する、という点です。現代語でいえば「の」は所有とかになりますから、助詞としてとれば「うつつがもっているゆめみ」となります主体はうつつになりますね。つまりあくまで「うつつのゆめみ」という現実からの逃避先においても、その存在の基盤は現実であるわけです。ですが、「ゆめみ」なので、主体であるうつつは夢を見ているわけです。単に「ゆめ」であるのではなく、ゆめこでもなくゆめのでもなくゆめたろうでもなく「ゆめみ」であるということで、そういう意味合いが付与されます。つまり、うつつはうつつでありながら現を見ているのではなく、夢を見ているので、あくまでわたしからみた空想の世界であるという図式になるかと思います。

対して、「ゆめみのうつつ」は、ゆめみを名前ととらえて、「ゆめみのもっている現」という感じです。主体がゆめみになっています。頭がこんがらがってきました。つまり、「うつつのなかにあるうつつがみているゆめのなかにあるうつつ」ということです。つまり、現ではないのです。

では、わたしの現とはどこにあるのか。

リアルアカウントの名前は本名なのですが、その写真は「他者に背を向けている自分」です。つまり、現実で面と向かって話す関係である人間しかいない状況において、正面からではなく背中から付き合おうとしているわけですね。

 

言葉にすると野暮すぎておさまりがつかなくなっていきます。

本当の自分をさらけ出せる場所が本当の自分を表しているのだとすれば、わたしの本当の自分は、物理的なものではないのかもしれない、ということでした。それは常々感じていることで、現実に溶け込んでいないからこそ楽しめるものがたくさんあるのでいいんですが、こんなとこにも現れているんだなあと思って感動してしまって、ついうまく回らない頭でこんな書き連ねてしまいました。眠い。

いつかうつつのうつつという名前で人に撮ってもらった正面からの写真をアイコンにしてTwitterをやる日が来るのか、という話になりますが、そんな日は死んでも来ないです。なぜなら、Twitterという場所がそもそも現のなかにある夢のような場所だから。

森の中へ

イントゥ・ザ・ウッズを観て興奮のあまりあふれでた妄想をかたちにしておきたい。

 

わたしは童話やらの象徴的な解釈が大好きで、もちろん童話もおとぎ話も大好きなので、「童話のハッピーエンドのその後」というのに惹かれて手に取ったのだけど、正直言って前半はとても退屈だった。このまま終わるんだとしたら途中で観るのをやめたいな、と何度か思った。あまりにちんけな話に思えた。けれども、「童話のハッピーエンドのその後」が始まると、とたんにわたしは興奮を止められなくなってしまった。わたしのなけなしの知識をこれでもかというほど刺激してやまなかった。

これは作品へのリスペクトをこめた、わたし個人の受け取りかたを書き連ねるだけの記事なので、もろもろの権利の侵害や他の人の感想の否定、意味付けの固定を意図するものではないことをここに明らかにしておきます。わたしはこんな楽しみかたをさせてもらいました。ありがとう。

 

結末部分に至るまでの重要な内容が含まれるので、閲覧の判断は各自でお願いします。

 

主要な登場人物は、パン屋を営む子供のいない夫婦、その隣に住む魔女、母と牛と暮らす貧しい少年、祖母を訪ねに森へ向かう少女、王子と結ばれることを夢見る貧しい娘、塔に幽閉された娘。夫婦と魔女以外には具体的なモチーフの童話があり、それぞれ『ジャックと豆の木』『赤ずきん』『シンデレラ』『ラプンツェル』で、魔女はラプンツェルの育ての親としてのアイデンティティは付与されています。

ストーリーは長くなるので割愛しました。興味深い要素だけ抜き出しています。

 

これらの登場人物は、「勇敢な妻との間に子供が生まれない頼りない男」と「塔に幽閉した娘にすがり付く母親」と「母と暮らす少年」と「母の言いつけを聞き祖母のもとへ向かう少女」と「継母たちのいじめから、亡き母の墓に泣きつく娘」と「塔に幽閉され母に支配された娘」といった図式で前半に描写されます。この話も類に漏れず、父性や父親といった存在が排除されています。

呪いが解け夫婦が男の子を授かり、魔女が若返り、物語が定められたハッピーエンドを迎えると、「魔女が育てた豆を、妻が姫にあげ、姫がそれを投げ捨てたことで」、「女の巨人」が空から降りてきます。その巨人は、「魔女が育てた豆を、夫が牡牛と引き換えに少年にあげ、少年がその豆でできた木を登り、巨人から金の卵を盗み、それを見せられた少女が信じなかったので、少女を信じさせるために金のハープを盗んだところ、追いかけてきた男の巨人を殺した」ことによって、「夫を失った妻」です。巨人は王国を踏みあらし、それによって赤ずきんは母と祖母を失います。

巨人はジャックを探しているので、シンデレラの継母たちや王子の付き人はジャックを探しだし差し出そうとしますが、ジャックの母はそれを止めようとして死んでしまいます。

夫婦は帰る場所を失った赤ずきんに赤ん坊をあずけて、手分けして森を進みますが、その最中に妻は王子と出会い、夫はシンデレラと出会います。シンデレラも巨人によって母の墓を失っています。

さて妻は、王子とのキスによって混乱し、夢と現実の間で巨人から逃げ崖から落ちて死んでしまいます。王子は妻とのキスによって奮い立ち巨人退治に向かいました。

その後妻にもたせたマフラーをつけたジャックと出会い、夫は妻の死を知ります。

これで真の決別のために必要な要素がそろいました。

夫は妻の死をうけて、巨人を怒らせたジャックを責め、ジャックは豆を自分にわたした夫を責めます。赤ずきんはそれをきいて、ときに夫に味方し、ときにジャックに味方します。そして、シンデレラは己の責任に気づき、ジャックは赤ずきんに責任を問います。そこに魔女が現れ、みなが魔女が豆を育てたせいだと魔女を責めると、魔女は自分のせいにする代わりにジャックをよこせ、と言います。そしてそれを拒んだ彼らに、魔女が新たにまいたいくつかの豆を世話しろと呪いながら、母へ新たな罰を乞い、タールの沼になります。

魔女が消えるとそれぞれは自分達の責任を受け止め、協力して巨人を倒すことにします。そのなかでシンデレラは王子の裏切りを知り、目の前のお互いではなく王子とそれぞれが夢見た相手を愛することを告げあって決別します。

巨人はタールの沼に足をとられ、ジャックの投げた石つぶてによって倒れ絶命します。そして、夫と赤ん坊、赤ずきんとジャックとシンデレラは、一緒に暮らすことになりました。

 

これを、夫を主人公と見立て他のキャラクターをすべて「象徴」として解釈します。嫌な予感がしたらやめておいてください。わたしも自分で傲慢なことをしようとしているなと思います。

子供が生まれるためには、「魔女」というネガティブな母なるものからうけた呪いを解かねばなりませんでした。そのために必要なのが、白い牡牛と赤い頭巾と黄色い髪の毛と金色の靴だったところについては、いくつか考察している記事もあったので割愛します。問題は子供が生まれたあとです。

男は親になることができませんでした。それは自らが母を失ったあと父に捨てられたからでもあります。最後に男が親になることを決意するまでに起こったのは、「妻との死別」「魔女の消失」「少年・少女・姫との結託」「女巨人の退治」でした。これを、強すぎる母なるものの存在から決別する過程であるとわたしは感じました。

まず妻。物語の前半では、男の伴侶として、呪いを解くために、ラプンツェルの髪をちぎったり、シンデレラと靴を交換したりします。ラプンツェルは男の妹を魔女が育てた娘なのも興味深いです。妻は見事に男を助け、森の中での苦難を乗り越えた夫を称賛し、見違えるような頼れる男になったと言います。そして子供が生まれ、妻は「母」の属性を得ます。森の中で妻は赤ん坊を抱きたがらない夫を責めます。そして自らが率先して一人で森の中をゆき、王子という「夢の中の存在」に出会い心を揺り動かされるうちに退場します。ちなみに王子にとっては妻こそが相対する世界に住む「夢の中の存在」であり、その妻とのキスによって力を得て旅立っていく、というのも興味深いです。つまり、母という属性を得た以上この男を主人公とした世界からは退場しなければならなかったのではないでしょうか。

次に魔女。魔女は男に呪いをかけた張本人で、男のこの一連の試練の元凶です。魔女は最後にジャックという少年を求めますが、叶わず男たちの結託に気圧され自らタールの沼になる道を選びました。このタールというのは、物語の前半で王子がシンデレラを引き留めるために階段に塗ったものでもあり、使われ方としては男が女を足止めするみたいな感じでした。

最後に巨人。巨人はでかすぎる女というそのままのイメージがしっくりきます。

男は、母なるもの、ネガティブな母なるもの、大きすぎる女性を、少女と少年と娘と結託することでのりこえ、己の赤ん坊を育てる姿勢にはいることができたのではないかと感じました。男が親になるためには、魔女のまいた種によって、天と地が繋がり、少年が災厄を天から呼び寄せなければなりませんでした。それを乗り越えるのには、母ではない女性性の力が必要だったのかもしれません。

あまりこういう言葉を使わないようにしたのですが、グレートマザーにのみ込まれた状態から、トリックスターが事態を急変させ、新たなアニマと出会う、という大きな流れかなあと感じて、ものすごく勝手に興奮してしまったわけでした。

 

本当はもっともっと考えるべき内容や面白い表現がたくさんあるんですが、わたしの力量ではわたしの拙い知識から連想してしまった妄想しか書き記すことができないので、ぜひ、これを読んでくれたなんて奇特な人がいたのなら、そういう少し穿った目でも観てみてほしいと思います。歌うまいし絵も綺麗だし話もいいし、素直に素晴らしい作品だと思います。しかし、その背後には多くの童話と同じように、こういう象徴的な表現が溢れていて、だからこそこんなにも人の心に響くのかな、という気がしてしまいます。

 

 

悪とメルヘン―私たちを成長させる“悪”とは?

悪とメルヘン―私たちを成長させる“悪”とは?

 

 この本、すごく面白かったです。

明日の明け方に

あなたのために火をおこそう

朝から夜への別れのために

夜から朝が見渡せるように

小さな火しか点らないこの手にも

あなたのために火をおこそう

あなたが夜に迷わないように

あなたが朝に辿り着けるように

ながいながい夜の空を

凍えながら泳ぎ続けたあなたに

ながいながい夜の空で

灯りをひとつ守り続けたあなたに

いつか明くるあなたの空から

わたしのいるところが見えるように

いつか来る明日の明け方に

あなたのために火をおこそう

こばなし

日が落ちはじめた空は、あたたかく溶けるような色の光をまちに落とす。木も、家も、花も、道も、人も、その影を薄くのばしたぶんだけ、それぞれの色を空へ明け渡し、その光の色を享受している。ただ流れる川の水面だけが、その光を集めては放ち広げては仕舞いこんでいる。
がたんごとん、がたんごとん。
ずいぶん遠くにあるはずの線路から、光の合間をぬって電車の音が響いてくる。ぼくは乗ることのできない電車。帰るでも行くでもなく、揺れ続ける電車。空の色を受け止めた葉っぱが、その音に似たリズムでもとの色を覗かせてはまた空の色に染まる。
「タクシーは要りませんか」
ぼくの足元から、郵便ポストを担いだてんとう虫が声をかけてきた。要りません、と応えると、てんとう虫は来た道を帰っていく。ぼくはてんとう虫に八百屋の場所を訊かなければならなかったのに。呼び止めようとしたときには、てんとう虫はもう狼になっていた。送り狼になってはいけませんよ、と川の向こう岸から声がする。
「送り狼になってはいけませんよ、送り狼になってはいけませんよ、紙飛行機を一機、紐で結わえてこちらへ送ってくださいね」
向こう岸には、町内放送のためのスピーカーがひまわりと交互に並んでいる。
「おかあさん、ごはんはまだですか」
ぼくは叫んだ。
「明日は図書館に行く日だから」
スピーカーが揺れた。スピーカーは竜胆なのだ。スピーカーは水仙なのだ。スピーカーはぬばたまの烏が落としたビードロのしずくなのだ。スピーカーは明日咲くつぼみを静かに揺らした。
明日は図書館に行く日だ。図書館に行く日は、おかあさんが握ったおにぎりとぼくが握ったおにぎりをアルミホイルでくるんで、晩御飯の残りをつめたお弁当箱と一緒にくまさんの巾着袋にいれて持っていくんだ。図書館に行ってぼくのお気に入りの絵本を借りて、おかあさんがガーデニングの本を借りて、帰り道にぞうさん広場でお弁当を食べるんだ。ぞうさん広場にはぞうさんがもういない。ぞうさん広場と名付けたのはおかあさんだ。おかあさんとぼくがぞうさん広場でお弁当を食べていた頃には、そこにぞうさんがいた。ギイギイ音をたてて揺れるぞうさん。いまはぞうさん広場には小さくて汚い砂場と、真新しいベンチしかない。生い茂った雑草とそこを住み処にする虫を嫌ってだれもそこを訪れない。ぼくもそこを訪れない。ここはすべてが嘘なのだから。
「おかあさん、ここはすべてが嘘ではないですか」
ぼくは叫んだ。
「明日は図書館に行く日だから、紙飛行機を一機、紐で結わえてぞうさんに渡してくださいね」
ぼくは知らないふりをする。おかあさんもぞうさんもいなくなった朝へ向かう電車を逃したまま、ぼくは眠ったふりをする。空はかけあしでぼくを明日へとつれていこうとする。まだだ。ぼくはまだここにいる。朝はまだ、ぼくのもとへ訪れてはならない。

「おかあさん、ばんごはんはまだですか」
夜の闇につられて魚が跳ねる音がした。

明日の自分によろしく

一日ごとに自分が死んでは生まれていく気分になる。

 

わたしの人生には今日しかない。昨日の自分との連続性がないから、毎日、時間が進むということがわからないし、同じ日をずっとやり直している気分になる。でもそんなことはなくて、昨日の自分が食べてしまったものや、取り付けた約束や、やらなかった課題や、動かしてしまった歯車は、全部わたしに影響するのだ。

昨日の自分の考えていたことは、今の自分には理解できなかったり、納得できなかったり、とにかく自分の考えていたことだと思うことができない。

 

一分一秒で、自分の気持ちがころころかわって、それに振り回されていきている。

みんなわたしのことを、よくわからないだとか、変なやつだとか、いろいろ言うけれど、わたしが一番わたしに振り回されていて、わたしが一番そう思っている。

でも人を振り回して傷つけて迷惑をかけるのも確かだ。

人の気持ちがよくわからない。

わたしは人の気持ちがわかると思っていた。

それは共感とか、そういうやつで、心の理論とか、そういうやつ。

でも、わたしが人の気持ちをわかったような気になっていたのは、理屈で考えてはじきだしていたからにすぎなかったんだと思う。

だから、自分の理屈とずれたことを言ってくる人がこわい。嫌われるはずなのに嫌われないのも、なにもかも全部わたしを騙してるんだと思う。

人間はみんなうそをつく。

言葉は嘘をつくために使われる。

言葉にしたものは全部、ほんとうのものではなくなって、足りない形がすべてになってしまう。

言葉なんてなければ良かった。

 

パパもママもきっと同じ思いをしながら生きていたんだろう。パパの遺書にも、ママの日記にも似たようなことが書いてあって、わたしはそれに安心するのだ。うそばかりの現実のなかで、死んでしまった二人の遺したものはうそにはならない。死んだ人、会えない人、どこにもいない人、それだけが本当の世界にいる人で、わたしにうそをつかない人。それ以外の人と仲良くしようとしたり、自分をわかってもらおうとするからだめなんだと思う。わかってもらう自分なんてどこにもないのに。みんなと同じようになんかできないのに。

パパの遺書には、自分の殻に閉じこもらずにたくさんの人と関わってください、と書いてあった。パパにはわかってたんだと思う。わかってたんなら、死ぬな、ばか。

 

今日の自分は今日死ぬ。